6.24.2011

國分功一郎
第4回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?

原理というのは、すべての議論の出発点となる考えのことである。暇と退屈の原理論と題された本章では、暇と退屈を考えていくための出発点を追求しようと思う。

ではどこにそれを求めようか? どんなテーマについても、たいていそれを論じているひとがいる。そうした先駆者の考えを参考にできれば効率がいい。ここでもそのようなやり方をとることにしよう。

暇と退屈を考察した人物として本書が最初に取り上げたいのは、十七世紀のフランスの思想家、ブレーズ・パスカル[1623~1662]の議論である。

近年書かれた退屈論に、ノルウェーの哲学者ラース・スヴェンセン[1970~]の『退屈の小さな哲学』がある。これは大変優れた書物であり、本書でもこのあと参照することになるのだが、そのスヴェンセンが「退屈についての最初の偉大なる理論家」と述べたのがパスカルである。彼は、パスカルの分析は十七世紀に書かれたものとは思えないほど現代的であるとも言っている*1
*1―Lars Fr. H. Svendsen, Petite philosophie de l’ennui, Fayard, 2003, p.72
ラース・スヴェンセン、『退屈の小さな哲学』、集英社新書、二〇〇五年、六八ページ
読んでみれば分かるが、パスカルの分析は本当に見事である。あまりにも見事であるがゆえに、読んでいてすこし腹が立つほどなのだ。いったいどういうことなのか? 実際にパスカルの分析を見ていこう。

パスカルという人
改めて述べれば、パスカルは十七世紀フランスの思想家である。一六歳の時に「円錐曲線試論」を発表した早熟の天才数学者であり、また、二度の「回心」を経て信仰に身を捧げることを決意した宗教思想家でもある。

とはいえ、彼の名を世間に知らしめているのは、何よりも『パンセ』というその著作、そしてまたその中にある「考える葦」という有名な一節だろう。パスカルについては何も知らなくとも、「考える葦」という言葉を耳にしたことのある人は多いのではないか。「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である」*2
*2―Pascal, Pensées, textes établi par Léon Brunschvicg, GF-Flammarion, 1976, §347, p.149
パスカル、『パンセ』、前田陽一・由木康訳、中公文庫、一九九三年、断章番号三四七、二二五ページ
この一節だけを読むと、パスカルはずいぶんとヒューマニスティックな思想家のように思われるかもしれない。人間の力を信じる、心熱く、優しい人物と思われるのではないだろうか。

実際に『パンセ』をひもとくと、そういうイメージは吹き飛ぶ。パスカルは相当な皮肉屋である。彼には世間をバカにしているところがある。そしておそらく、それが最もよく現れているのが、今からわたしたちが暇と退屈についての考察の出発点にしたいと考えている、「気晴らし(ディヴェルティッスマン)」についての分析である。

人間の不幸の原因
退屈と気晴らしについて考察するパスカルの出発点にあるのは次の考えだ。

―人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

パスカルはこう考えているのだ。生きるために十分な食い扶持をもっている人なら、それで満足していればいい。でもおろかなる人間は、それに満足して部屋でゆっくりしていることができない。だからわざわざ社交に出かけてストレスをため、賭け事に興じてカネを失う。

それだけならまだましだが、人間の不幸はそれどころではない。十分な財産をもっているひとは、わざわざ高い金を払って軍職を買い、海や要塞の包囲線に出かけていって身を危険にさらす(パスカルの時代には、軍のポストや裁判官のポストなどが売り買いされていた)。もちろん命を落とすことだってある。なぜわざわざそんなことをするのかと言えば、部屋でじっとしていられないからである*3
*3―「気を紛らすこと。
人間のさまざまな立ち騒ぎ、宮廷や戦争で身をさらす危険や苦労、そこから生ずるかくも多くの争いや、情念や、大胆でしばしばよこしまな企て等々について、ときたま考えた時に、私がよく言ったことは、人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだということである。生きるために十分な財産を持つ人なら、もし彼が自分の家に喜んでとどまっていられさえすれば、なにも海や、要塞の包囲線に出かけて行きはしないだろう。軍職をあんなに高い金を払って買うのも、町にじっとしているのがたまらないというだけのことからである。社交や賭け事の気晴らしを求めるのも、自分の家に喜んでとどまっていられないというだけのことからである」
Pensées, §139, p.86 『パンセ』、断章番号一三九、九二ページ

部屋でじっとしていられないとはつまり、部屋に一人でいるとやることがなくてそわそわするということ、それにガマンがならないということ、つまり、退屈するということだ。たったそれだけのことが、パスカルによれば人間のすべての不幸の源泉なのだ。

彼はそうした人間の運命を「みじめ(ミゼール)」と呼んでいる。「部屋にじっとしていられないから」という実につまらない理由で不幸を招いているのだとしたら、確かに人間はこの上なく「みじめ」だ。

ウサギ狩りにいく人はウサギが欲しいのではない
話を進めよう。ここからがパスカルの分析のおもしろいところだ。

人間は退屈に耐えられないから気晴らしを求める。賭け事をしたり、戦争をしたり、名誉ある職を求めたりする。それだけならまだ分かる。しかし人間のみじめはそこでは終わらない。

おろかなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしを求めているにすぎないというのに、自分が追い求めるものの中に本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言うのである。

どういうことだろうか? パスカルが挙げる狩りの例を通じて見てみよう*4
*4Pensées, §139, p.87-88 『パンセ』、断章番号一三九、九三~九五ページ
狩りというのはなかなか大変なものである。重い装備をもって、一日中、山を歩き回らねばならない。お目当ての獲物にすぐに出会えるとも限らない。うまいこと獲物が見つかれば、躍起になって追いかける。そのあげく、狩れた狩れなかったで一喜一憂する。

そんな狩りに興じる人たちについてパスカルはこんな意地悪なことを考える。ウサギ狩りに行くひとがいたらこうしてみなさい。「ウサギ狩りに行くのかい? それなら、これやるよ」。そう言って、ウサギを手渡すのだ。

さて、どうなるだろうか?
その人はイヤな顔をするに違いない。

なぜウサギ狩りに行こうとする人は、お目当てのウサギを手に入れたというのに、イヤな顔をするのだろうか?

答えは簡単だ。ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではないからだ。

狩りとは何か? パスカルはこう言う。狩りとは買ったりもらったりしたのでは欲しくもないウサギを追いかけて一日中駆けずり回ることである。人は獲物が欲しいのではない。退屈から逃れたいから、気晴らしをしたいから、ひいては、みじめな人間の運命から眼をそらしたいから、狩りに行くのである。

狩りをする人が欲しているのは、「不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らせてくれる騒ぎ」*5に他ならない。だというのに、人間ときたら、獲物を手に入れることに本当に幸福があると思い込んでいる。買ったりもらったりしたのでは欲しくもないウサギを手に入れることに本当に幸福があると思い込んでいる。
*5―« […] le tracat qui nous détourne d’y penser [à notre malheureuse condition] et nous divertit. » Pensées, §139, p.87
『パンセ』、断章番号一三九、九三ページ
パスカルは賭け事についても同じことを述べている。毎日わずかの賭け事をして、退屈せずに日々を過ごしている人がいるとしよう。「賭け事をやらないという条件つきで、毎朝、彼が一日にもうけられる分だけのカネを彼にやってみたまえ。そうすれば、君は彼を不幸にすることになる」*6。当然だ。毎日賭け事をしている人はもうけを欲しているのではないのだから。
*6Pensées, §139, p.89 『パンセ』、断章番号一三九、九七~九八ページ

欲望の原因と欲望の対象
パスカルが述べていることをより一般的な言い方で定式化してみよう。それを、〈欲望の対象〉と〈欲望の原因〉の区別として説明することができるだろう。

〈欲望の対象〉とは、何かをしたい、何かが欲しいと思っているその気持ちが向かう先のこと、〈欲望の原因〉とは、何かをしたい、何かが欲しいというその欲望を人のなかに引き起こすもののことである。

ウサギ狩りにあてはめてみれば次のようになる。ウサギ狩りにおいて、〈欲望の対象〉はウサギである。確かにウサギ狩りをしたいという人の気持ちはウサギに向かっている

しかし、実際にはその人はウサギが欲しいから狩りをするのではない。対象はウサギでなくてもいいのだ。彼が欲しているのは、「不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らせてくれる騒ぎ」なのだから。つまりウサギは、ウサギ狩りにおける〈欲望の対象〉ではあるけれども、その〈欲望の原因〉ではない。それにもかかわらず、狩りをする人は狩りをしながら、自分はウサギが欲しいから狩りをしているのだと思い込む。つまり、〈欲望の対象〉を〈欲望の原因〉と取り違える。

賭け事でも同じように〈欲望の対象〉と〈欲望の原因〉を区別できる。賭け事をしたいという欲望はもうけを得ることを対象としている。だがそれは、賭け事をしたいという欲望の原因ではない。繰り返すが、「毎日カネをやるから賭け事をやめろ」と言えば、君はその人を不幸にすることになるのだ。その人はもうけが欲しいから賭け事をしているわけではないのだから。

どちらの場合も、〈欲望の原因〉は部屋にじっとしていられないことにある。退屈に耐えられないから、人間のみじめから眼をそらしたいから、気晴らしがほしいから、汗水たらしてウサギを追い求め、財産を失う賭け事を行う。それにもかかわらず、人間は〈欲望の対象〉と〈欲望の原因〉を取り違える。ウサギが欲しいからウサギ狩りに行くのだと思い込む。

熱中できること、自分をだますこと
こう考えてくると、気晴らしは要するに何でもよいのだという気すらしてくる。退屈を紛らしてくれるなら何でもいい。あとは、選択可能な気晴らしのなかから、個人個人にあったものが選ばれるだけである、と。

だが、確かに何でもよいのかもしれないとはいえ、条件はある。簡単だ。気晴らしは熱中できるものでなければならない。気晴らしは騒ぎを引き起こすものでなければならないのである。なぜ熱中できるものでなければならないのだろうか? 熱中できなければ、ある事実に思い至ってしまうからである。気晴らしの対象が手に入れば自分は本当に幸福になれると思い込んでいるという事実、もっと言えば、自分をだましているという事実のことだ。

パスカルははっきり言っている。気晴らしには熱中することが必要だ。熱中し、自分の目指しているものを手に入れさえすれば自分は幸福になれると思い込んで、「自分をだます必要があるのである」*7
*7―« Il faut […] qu’il se pipe lui-même. » Pensées, §139, p.90
『パンセ』、断章番号一三九、九八ページ
〈欲望の対象〉と〈欲望の原因〉の区別を使って次のように言い換えてもいい。人は、自分が〈欲望の対象〉を〈欲望の原因〉と取り違えているという事実に思い至りたくない。そのために熱中できる騒ぎを求める。

自分をだますといっても、そこには深刻な趣きなど少しもないことにも注意しておこう。人間は部屋にじっとしていられず、必ず気晴らしを求める。つまり、退屈というのは人間が決して振り払うことのできない“病”である。だが、にもかかわらず、この避けがたい病は、ウサギ狩りとか賭け事のような、熱中できるものがありさえすれば、簡単に避けられるのだ。ここに人間のみじめさの本質がある。人間はいとも簡単に自分をだますことができるのである。

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