7.13.2011

時評 第5回

ドクター・ショッピングと原発情報

大澤真幸

福島第一原子力発電所の事故以来、原発の安全性についても、放射線リスクについても、専門家のあいだで意見の一致が見られない。報道に接し、解説を読み、資料にあたっても、正解を得る手がかりさえも摑めないような気がしてくる。「正しい情報なんてあるのか」「どれも信用できない!」との思いにとらわれないだろうか。これを「リスク社会における仮説の発散」と見るとどうなるか。インフォームド・コンセント、倫理委員会、セカンド・オピニオンにも共通する、この危機にあって私たち全員を拘束する「条件」が浮上する。(編集部)


私は、5月に、ここ朝日出版社から『社会は絶えず夢を見ている』(以下『社会・夢』)を出した。これは、講義集で、収録した講義はすべて、3.11の出来事の前に行ったものだが、その内容が、3.11とふしぎなほどに共振しているので、自分でも驚いている。そのことは、このBlogでも読めるようになっている、『社会・夢』の「あとがき」にも記しておいた。『社会・夢』で提起した論点と原発事故(にともなう出来事)との関連について、もう少し論じておこう。

* * *

『社会・夢』の第三講で、私はリスク社会について論じている。そこで、私は、リスク社会は、第三者の審級が二重の意味で撤退していること、かつわれわれがその事実を受け入れられず、否認していること、この二点によって特徴づけられる、と論じている。リスク社会では、第三者の審級が、その本質essenceに関してだけではなく、その現実存在existenceにおいても撤退している。どういう意味なのか。詳しくは、『社会・夢』を参照していただきたいのだが、ここでも簡単に説明しておこう。

二重の撤退の含意は、第三者の審級が本質に関してのみ撤退しているケースと対照させると、よく理解できる。たとえば、古典派経済学が念頭においている市場を考えてみる。アダム・スミスによれば、市場に参入している個人が、それぞれ勝手に自身の利益を最大化すべく利己的に行動することによって、社会一般にとっても最も大きな利益が得られる。各個人は、社会全体の利益のことを考える必要もないし、そもそも、どのような状態が社会にとって最も望ましいかをあらかじめ知ってはいない。彼は、ただ、自分の利益の極大化にだけに専念しているのだ。

しかし、結果として、社会一般の利益もそれによって最大になる。このように、個人の勝手な行動―全体への配慮を欠いた利己的な行動―が、結果的に社会にとって都合のよい結果へと収束するため、アダム・スミスは、こうした状況を、社会(市場)に対して「見えざる手」が働いているかのようだ、と記述したのである。

こうした市場のメカニズムを、歴史のメカニズムとして一般化してとらえたのが、ヘーゲルの歴史哲学である。ヘーゲルに、「ずるがしこい理性」という有名な概念がある。この概念の意義は、実例から見ると、わかりやすい。

ヘーゲルが援用している、きわめて顕著なケースは、ブルータス等によるカエサルの暗殺である。カエサルは、大きな軍功をあげ、ライバルのポンペイウスを打ち負かし、ローマ市民にも圧倒的な人気があったため、ついに終身独裁官の地位に就いた。ブルータスたちは、カエサルにあまりにも大きな権力が集中し、ローマの共和政の伝統が否定されるのではないかと懸念し、カエサルの暗殺を決行した。クーデタは成功し、カエサルは殺害された。

しかし、この出来事をきっかけとして、歴史が大きく動き出し、紆余曲折の末に結局、暗殺から17年後にあたる年に、政争を勝ち抜いたオクタヴィアヌスが事実上の皇帝に就任し、ローマは帝政へと移行する。

これはまことに皮肉な帰結だと言える。ブルータスたちは、最初、カエサルが皇帝になってしまうのを防ぐために―つまりローマが帝政へと移行することがないようにと―カエサルを暗殺した。そして、その暗殺は、実際に成功した。しかし、まさにその成功こそが、共和政から帝政へのローマの移行を決定的なものにしたのだ。オクタヴィアヌスが初代の皇帝に就位するに至る出来事の連なりは、この暗殺によってこそ動き出すからである。

ヘーゲルは、この過程を、次のように分析している。カエサルが個人的な権限を強化し、さながら皇帝のようにふるまっていたとき、実は、本人は気づいてはいないが―つまり即自的には―歴史的真理に合致した行動をとっていたのだ。共和政はすでに死んでいたのだが、カエサルや暗殺者たちを含む当事者たちは、まだそのことに気づいていなかったのである。

したがって、暗殺者たちは、カエサル一人を排除すれば、共和政が返ってくると思ったのだが、しかし、実際には、カエサル殺害こそがきっかけとなって、共和政から帝政への転換が決定的なものになった―即自的なものから対自的なものへと転換した。それによって、「カエサル」は、個人としては死んだが、ローマ皇帝の称号として復活したのだ。

「カエサルの殺害は、その直接の目的を逸脱し、歴史が狡猾にもカエサルに割り当てた役割を全うさせてしまった」(Paul Laurent Assoun, Marx et répétition historique, Paris, 1978, p.68)。この場合、まるで、歴史の真理を知っている理性が、ブルータスやカエサルを己の手駒として利用し、歴史の本来の目的(ローマ帝国)を実現してしまったかのようである。これこそが、ずるがしこい理性である。

こうした考え方の原型は、プロテスタント・カルヴァン派の「予定説」であろう。キリスト教の終末論によれは、人間は皆、歴史の最後に神の審判を受ける。祝福された者は、神の国で永遠の生を与えられ、呪われた者には、逆に、永遠の責め苦が待っている。これが最後の審判である。神による最終的な合否判定だ。

予定説は、このキリスト教に共通の世界観に、さらに次の2点を加えた。第一に、神は全知なのだから、誰が救われ(合格し)、誰が呪われるか(不合格になるか)は、最初から決まっている。しかし、第二に、人間は、神がどのように予定しているかを、最後のそのときまで知ることができない。このとき、人はどうふるまうか。それぞれの個人は、神の判断を知ることもできないのだから、ただ己の確信にしたがって、精一杯生きるしかない。彼らは、歴史の最後の日にしかるべき判決を受けるだろう。

これら三つの例に登場している第三者の審級(見えざる手、ずるがしこい理性、予定説の神)には、共通の特徴がある。第一に、どの例でも、第三者の審級が何を欲しているのか、何をよしとしているのか、渦中にある人々にはまったくわからない。つまり、人々には、その第三者の審級が何者なのか、何を欲望する者なのかが、さっぱりわからないのである。

これは、第三者の審級が、その本質(何であるかということ)に関して、まったく空白で、不確実な状態である。しかし、第二に、にもかかわらず、第三者の審級が存在しているということに関しては、確実であると信じられている。第三者の審級の現実存在に関しては、百パーセントの確実性があるのだ。

本質に関しては空虚だが、現実存在に関しては充実している第三者の審級、これがあるとき、リスク社会は到来しない。三つのケースのどれをとっても、内部の個人には、ときにリスクがある。たとえば、市場の競争で敗北する者もいる。カエサルもブルータスも志半ばで死んでしまった。カルヴァン派の世界の中では、神の国には入れない者もたくさんいる。だから、個人にはリスクがある。

しかし、全体としては、第三者の審級のおかげで、あるべき秩序が実現することになっている。全体が崩壊するような、真のリスクはありえない。見えざる手は、最も望ましい資源の配分を実現するだろう。ずるがしこい理性は、歴史の真理に従った目的を実現するだろう。神は、しかるべき人を救済し、そうでない人を呪うだろう。

* * *

リスク社会は、第三者の審級が本質に関して空虚になっただけではなく、現実存在に関しても空虚化したときに到来する。厳密に言えば、リスク社会は、第三者の審級が二重の意味で(本質と現実存在の両方に関して)空虚になっているのに、人々がそれを否認している社会である。詳しくは、『社会・夢』を読んでいただきたい。

さて、ここでは、「科学」という真理システムについて論じてみたい。まず理解していただきたいことは、「科学」は本来、「本質に関してはまったく空白で不確実だが、現実存在に関しては逆に完全に充実しているような第三者の審級」に適合した真理システムである、ということである。この点を少しばかり説明してみよう。

科学の顕著な特徴、それは真理システムなのに、真理と見なされるべき言説の集合ではない、ということである。これが、他の真理システムとは異なる科学の特徴である。科学は、真理の集合ではなく、「真理の候補(仮説)」の集合である。科学的命題の中には、もちろん、ほぼ間違いないと見なされているものはいくつもある。「遺伝子の実体はDNAである」とか、「生物は進化してきた」とか、「物質は素粒子から成る」とか、「宇宙は膨張している」等々の命題は、ほぼ真理と見なされているだろう。

しかし、これらも含めて、すべての科学的な命題は仮説であって、最終的な真理ではない。それらは、反証される可能性をもった仮説(真理の候補)である。実際、科学の歴史の中では、ニュートンの力学のように、ほぼ絶対に正しいと見なされてきた説でさえも、斥けられてきた。

人類が持ってきた、科学以外の真理システムは、当然、真理とされる言説の集合である。科学以外の―あるいは科学以前の―真理システムとして最も重要なのは、いわゆる世界宗教である。たとえば、イスラーム教の聖典『クルアーン』(コーラン)は、神の言葉を直接に書き写したものなのだから、当然、宇宙のあるべき姿を、真理を表現している。『クルアーン』に書かれていたことが、反証されることなどありえない。無論、『旧約聖書』や『新約聖書』に関しても、基本的には、事情は同じである。

仏教はどうか。仏教はいくぶんか複雑である。「ブッダ」とは、パッと真理に目覚めた者という意味である。ブッダは悟っており、何が真理かわかっている。普通の人、凡夫にはそれが何かはわからないのだが、しかし、少なくともブッダには真理がたち現われているのである。ブッダは真理を悟ったのであって、決して、新しい仮説を思いついたわけではない。ブッダに現れた「法(ダルマ)」は、最終的な真理である。

しかし、科学だけは、真理システムなのに、その内に、一つも真理そのものを含んではいない。この科学という営みを可能なものにしているのが、①本質に関しては空虚だが、②現実存在に関しては確実であるとされるような、第三者の審級である。

このことは、次のように考えると理解できる。今、知の理想的な主体というものを想定してみる。これが、第三者の審級にあたる。「真理」とは、この理想的な主体が「知っているであろうこと」である。科学者は、仮説しか知らない。その意味では、科学者ですら、理想的な知の主体が何を認識しているのか、それが何者であるか(本質)を理解できてはいない。しかし、科学とは、その理想的な主体が「知っていることになるはずのもの」を探究する言語ゲームなのだから、そのような主体が論理的には存在しうることが前提である。つまり、その現実存在は絶対的に確実でなくては科学的な探究そのものが無意味なものになってしまうのである。

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だが、このような理想的な主体―実際にはどこにも姿を現してはいない理想的な主体―の現実存在に関して、人々が揺るぎのない確信をもつことができるためには、一つの重要な条件が満たされていなくてはならない。ここで、いわゆる「通説」の機能が効いてくる。通説もまた、仮説(または仮説の集合)であることには変わりがない。しかし、それは、特別な仮説である。

一般に科学者コミュニティにおける探究に関しては、次のような過程が繰り返されることが暗黙の前提になっている。最初は、さまざまな仮説が提起され、それらの間の分散は非常に大きい。しかし、科学者の間の相互批判によって、多くの仮説は棄却され、次第に仮説の間の分散は小さくなっていく。そして、最終的に、大半の科学者が有力と認めるひとつの仮説へと科学的な言説は収束していく。この収束していった仮説が、通説である。それは、仮説ではあるが、ほとんど真理の代用品となる仮説である。それを否定することがきわめて困難であるような仮説だからである。

仮説の集合が時間を経ることによって通説へと収束していくとき、われわれは、あの「知の理想的な主体」が存在していることを、そのような主体がちょうど最後の審判の日の神のように(無限の)未来に待ち受けているのを、確信することができる。通説の延長上に、「真理」が存在しているに違いないという信頼をもつことができるからである。その「真理」を見るはずの主体こそ、知の理想的な主体にほかならない。

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だが、リスク社会の困難は、通説の不在である。いくつかの重要な分野において、仮説の間の競争が通説への収束の兆候をいっこうに現さないこと、これがリスク社会の特徴だ。収束どころか、しばしば、科学者たちの間の討議やコミュニケーションが蓄積されればされるほど、仮説の集合はむしろ発散―もしくは二極化―していくのだ。

仮説の発散が顕著なのは、たとえば、地球環境問題に関連するような分野である。地球はほんとうに温暖化しているのか、それともわれわれが経験しているのは一時的な気候変動の一種に過ぎないのか。仮に温暖化するとして、いつ頃、何度くらいになるのか。温暖化の主要な原因は、ほんとうに二酸化炭素なのか。……こうした基本的な問いに対して、専門家の見解は合致せず、大きく分極化している。専門家と素人の見解が乖離しているのではない。同じ程度の専門家の間でまったく異なった仮説が主張されているのである。

東電福島第一原発の事故の後、われわれは、この「(リスク社会における)仮説の発散」という問題を痛感している。たとえば、建造物としての原子力発電所は、どの程度、安全/危険なのか。ある専門家は、不幸にも破壊された福島第一原発の四つの原子炉とは異なり、他の原発は、あるいはそれ以降に建造された(相対的に)新しい原発は、容易に破壊されることなく、東日本大震災並みの地震や津波に十分に耐えられる、と主張する。

別の専門家は、大規模な地震が直下で勃発すれば、原発はひとたまりもなく崩壊し、福島第一原発の事故をはるかに超えるような深刻な事態に至るだろう、と予言する。ある専門家は、原子炉は何重にも安全のための措置が施されているので、それらがすべて破壊される確率は、「新石器時代から今日までの間に一度起きるか起きないか」ほどに小さいと言う。別の専門家は、原発の建設や定検には多くのごまかしがあって、今日まで大規模な事故がなかったことの方が幸運なのだ、と説く。

放射線や放射性物質の危険度についても同じような見解の分散が見られる。ある専門家は、指定された避難地域の外部での放射性物質の量は、われわれの健康にほとんど何の影響も与えない、と説く。逆に、放射線はほんの僅かであっても、われわれの身体にネガティヴな影響をもたらすのであり、今日の福島第一原発がまき散らした放射性物質は、何年かのちに取り返しのつかない悲惨な結果を及ぼすと主張する専門家もいる。さらには、少量の放射線は、健康によいのであって、そのことを示す実証的なデータもある、と語る科学者もいる。

原発に代わることが期待されている自然エネルギーのコストや見通しに関しても、専門家たちの意見の分散も、とてつもなく大きい。太陽光や風力などによる発電コストは、今後のイノベーションのことを計算に入れても、原発の発電コストを大幅に上回っていて、原発を放棄したときには日本経済は壊滅的な損失を被るだろう、と繰り返し説くものもいる。これとはまったく逆に、別の専門家は、自然エネルギーのコストは、どんどん低下しており、事故が起きた場合の損害賠償額までをも算入した原発のコストを下回るはずだ、と説明する。

このようにリスク社会では、仮説が通説へと収束しない。むしろ、仮説は発散していく。このとき、われわれは、第三者の審級を失うことになる。先に述べたように、本質に関していつまでも不確定であるにもかかわらず―つまり真理を告げてくれる神や真理を獲得したブッダのような者がいつまでも現れず、ただひたすらに仮説を手に入れるだけの状況であるにもかかわらず―、人が、第三者の審級の現実存在に関して確信を抱くことができたのは、分散していた仮説の集まりが時間を経ると通説へと収束していくからであった。

通説への収束がまったく見られないとき、われわれは、そもそも第三者の審級(真理を知るはずの理想的な主体)はどこにも存在しないのではないか、いつまで待っても出現することはないのではないか、という不安や恐怖を抱くことになるだろう。原発事故によってわれわれを慄かせているのは、このような不安や恐怖である。

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リスク社会においては、第三者の審級が、二重の意味で―つまり本質と現実存在の両方に関して―撤退している。しかし、人はこの事実を否認しようとしている。現代社会には、「第三者の審級の二重の撤退」を示す徴候が、至るところに―とりわけ科学にかかわる領域に―見出される。

そうした徴候の一つとして、医療の分野における「インフォームド・コンセント」の流行を挙げることができるだろう。インフォームド・コンセントとは、医者が患者に手術などの医療措置について、その効能や危険性についてよく説明した上で、患者から同意を得ることである。インフォームド・コンセントは、どのような治療を採用するかを、最終的には患者自身に選ばせることだと解釈することができる。これ自体は、たいへん結構なやり方だ。

しかし、どうして、ことあらためて、こうしたことが推進されなくてはならなくなったのかを考えてみれば、われわれは、ただちに、これが第三者の審級の不在に対する対抗手段であることに気が付く。

もともと、医療においては、―患者の視点からすれば―医者こそが、第三者の審級の位置を占めていた。医者は、(患者についての)真理を知っているはずの主体である。だが、よく考えてみれば、医者が、ほんとうに真理を知っていて、そこから必然的に演繹される適切な措置についても分かっているのであれば、どうして、医者は、わざわざ患者からの同意を必要とするのだろうか。医者は、同意など経なくても、その適切な措置に基づいて治療すればよいはずだ。

インフォームド・コンセントが必要になるのは、ほんとうは、医者でさえも、何が正しい措置なのか分かっていないからである。もはや、医者は真理を知ってはいない。今日の医療現場では、医者は、第三者の審級としては機能していないのである。インフォームド・コンセントは、いじわるな言い方をすれば、医者が患者に責任を転嫁することである―「あなた自身がこれを選んだのではありませんか」と。医者という外見だけを残して、そこから第三者の審級がたち去ってしまったとき、患者は自分で選択するしかないのだ。しかし、第三者の審級が患者の位置にやって来ているわけではないので、患者もまた、自信をもって選択することはできない。

インフォームド・コンセントと同じ形式の関係を、社会システムの全体に拡張したときに要請されるのが、いわゆる「倫理委員会」である。生殖などにかかわる斬新な技術が開発されるたびに、アドホックに、病院や大学ごとに、その技術の活用に倫理的に問題がないかどうかを検討する倫理委員会が構成される。そして、何やら不明瞭な根拠で、その技術が人間の尊厳を傷つける/傷つけない等の結論が出される。

「この行為が適切である」とか「あの技術は望ましくない」とかといった規範的な判断は、一般に、総体としての社会システムに対して君臨している(と想定されている)第三者の審級の観点から見て、それらの行為や技術などがどのように現れているか、ということである。わかりやすく言ってしまえば、「神」や「世間」や「人類」(といったシステムごとに多様な第三者の審級)の観点からの判断―と想定していること―を、われわれは規範的な命令として受け取るのである。

だが、これら第三者の審級がまったく機能しておらず、そもそもそうしたものが存在しているという想定が不可能なとき、どうしたらよいのだろうか? 個々の治療において、患者のインフォームド・コンセントが必要だったのと同じようなことが起きるのである。第三者の審級がいないのならば、自分たちで最終的な判断をくだし、選択するしかあるまい。その判断と選択の主体が「倫理委員会」である。「倫理委員会」は、言わば、権威を失った神からインフォームド・コンセントを求められているのである。

(私自身は、「倫理委員会」なるものが結成され、そこで新技術の是非が討議されること自体は、よいことだと思っている。しかし、問題なのは、―本稿の趣旨から逸れてしまうので詳述はしないが―かの倫理委員会が「人権」だとか「尊厳」だとか伝統的な概念で結論を正当化しようとするとき、第三者の審級が未だ存在しているかのように偽装していることである。

倫理委員会には、たいてい、カントやアリストテレスなどの伝統的な哲学を研究してきた倫理学者が一人は含まれている。困難は、カントやアリストテレスの倫理学が新技術を正当化もしなければ、否定もしないところにあるのに、まるで、カントやアリストテレスに精通していれば、適切な結論が導出できるかのようではないか。現在の「倫理委員会」は、第三者の審級の不在という過酷な事態を真には引き受けておらず、むしろ、それを隠蔽する役割を担っている。)

もうひとつ、医療現場から例を引いておこう。「セカンド・オピニオン」もまた、第三者の審級が退去してしまったことに対する反応のひとつである。セカンド・オピニオン―患者が自分の病気や治療法に関して主治医とは異なる第二の医者に意見を求めること―は、一見、インフォームド・コンセントとは対照的である。後者では、患者が最終的な判断をするように求められ、前者では、専門家が判断する。しかし、両者は完全に相補的である。

専門家である医者でさえも適切な措置が何であるかが分からないときに、患者に最終的な決断が求められても、患者が自信をもって選択できるわけではない。しかも、目の前の医者は、第三者の審級として機能してはいない(つまりその医者が語っていることが「真理」だとはとうてい信じられない)。こういうとき、患者はどうするのか。どこか別のところに、「ほんとうの第三者の審級」を探しに行くしかあるまい。それがセカンド・オピニオンである。

セカンド・オピニオンを求めること自体は、よいことだろう。だが、しばしば、患者は、セカンド・オピニオンを聞いても安心せず、さらにサード・オピニオン……へと続き、いわゆるドクター・ショッピングの状況に陥ることになる。問題は、目の前のこの医者ではなく、「第三者の審級」という抽象的な場所が社会的に失われていることにあるからだ。存在しない椅子に誰も座ることはできない。

* * *

最後に、もう一度、目下の原発事故の問題に立ち返ろう。原発や放射能の危険性をめぐる情報に対して、われわれは、今、セカンド・オピニオン、サード・オピニオン……Nth(N番目の)・オピニオンを求めて訪ね歩く患者に似ている。どの専門家の意見を聞いても、ほんとうには納得できない、という気分に陥るのだ。比較的安全寄りの発言を聞けば、「そんなことはあるまい。ほんとうは危険なのではないか」という懐疑が湧いてくる。それならば、非常に危険だという含意の発言に得心がいくかと言えば、「私たちは安心したいのだ!」という叫びを挙げてしまう。

原発事故以来、日本人は、政府や東京電力から公表される情報に関して、隠蔽や歪曲の疑念を払拭することができない。実際、政府や東電は、すべての情報を公開していないのかもしれない。単純なミスもふくめて、公表された情報には変形や恣意的な選択が加わっているであろう。意識的・戦略的な隠蔽だけではなく、政府や東電の関係者たちの無意識の操作によって、情報はかなりの変形や抑圧を被っていると推測できる。だから、政府や東電の情報の隠蔽や歪曲や誤りを指摘し、批判することは、全面的に正当なことだ。

こうしたことを留保した上で、付け加えておこう。われわれが、公表されるいかなる情報をも懐疑し、どれも信用できない、と感じているとき、われわれの精神状態は、ドクター・ショッピングがやめられなくなった患者のそれといささか似ている。どの情報にも納得できないとき、人はこう思う。どこかに、私を納得させてくれる―自信をもった決断へと私を導いてくれる―ほんとうに正しい情報があるはずだ、と。

言い換えれば、人は、公表されたどの情報に対しても、「これでは足りない!」という欠如感を抱かざるをえないのだ。かくして、情報が公表されるのと並行して、なおどこかに隠されたさらなる情報があるはずだ、という感覚が噴出してくるのである。

今や、総理すらも、セカンド・オピニオンを求める患者のようなものだ。本来であれば、総理こそが、最終的な決断を下すべき役割を担っているはずだ。しかし、玄海原発の再稼働に関して、首相は、ストレス・テストなるものをやるのだと宣言した。ストレス・テストはセカンド・オピニオンである(もっとも、私は、こういうテストをやることは―やらないよりは―よいことだと思う)。ストレス・テストの結果によって、われわれは―総理を含むわれわれは―安心するのだろうか。きっと安心することあるまい。サード・オピニオンの必要を感じるに違いない……。

そして、日本国民の多くが、「総理を代えろ!」と叫んでいるとき、「この医者じゃだめだ、次の医者を呼んでこい」と言っている患者と同じ態度を取っている。総理の早期退陣を求めている国会議員や官僚には、それぞれに固有の思惑や戦略や意図があるように思うが、その点についてここで詮索するつもりはない。ただ国会議員たちの動きに便乗して、国民が、総理の退陣を求めているとき、国民は、別の医者のセカンド・オピニオンを求めている患者と同じようにふるまっているのである。別の医者でも大同小異であることがわかっているのに……。


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(続く)
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