8.15.2011

加藤陽子
絵・題字 牧野伊三夫
母校・桜蔭学園での講演記録 後編1
歴史という言葉が初めて使われたのは、紀元前5世紀のことでした。そしてそこには「戦争」が関わっているのです。紀元前に生きた人たちは、どんなふうに戦争を書きのこしていたのか。今日は終戦記念日ですが、ぐるるっと2500年以上前までさかのぼり、戦争の根本について思いをめぐらせてみたいと思います。(編集部)

歴史は「戦史」から始まった

みなさんが勉強している歴史という学問にも、もちろん“始まり”があります。その起源はどこにあるかというと、戦争にある――「歴史は戦史から始まった」といえるのではないか、こう私は考えています。なぜそういえるのか。紀元前5世紀の古代ギリシアまでさかのぼってお話ししましょう。

ピューリッツァー賞を受賞するような作家がベトナム戦争を描くように、あるいは、その逆で、ベトナム戦争を描いてピューリッツァー賞を受賞するように、アメリカの国家と社会に深刻な亀裂を生んだベトナム戦争は、多くの優れた作家の心を捉えました。感性の優れた人々は、まさに起こっている真っ最中の出来事であっても、何をどのように捉えるべきか、鋭い視覚を提示し、後々に残してくれるものです。

この話からも推測がつくように、紀元前5世紀の人たちも、きちんと同時代の戦争に目を向けていました。

みなさんも古文の授業で、『源氏物語』に接したことがあるでしょう。1001年には成立していたと考えられている、この『源氏物語』を読みますと、「千年以上も前に書かれているのに、なぜ今の自分たちの恋愛感情や季節への感覚と同じなのだろうか」と驚くのではないでしょうか。人間の底にある精神や感情はあまり変わらないということは、古典文学を読むと確認できますね。

人間は歴史をどのように記述しはじめたのか、歴史学に大きな影響を与えた2人の鉄人を紹介しながら、彼らが目の前で起きた戦争をどう考え、どのように記述したかを見ていきましょう。

ひとり目の鉄人は、ローマの政治家で思想家でもあったキケロによって「歴史の父」と呼ばれたヘロドトスという人物です。今から2500年以上前、紀元前5世紀のギリシアに生きた人で(紀元前484年頃~前430年頃)、主著の『歴史』は岩波文庫で読めます。



歴史 上 (岩波文庫 青 405-1) 歴史(中) (岩波文庫 青 405-2) 歴史 下 (岩波文庫 青 405-3)

上・中・下と3巻あり、1巻が500ページほどもあるので、読み通すのは大変ですが、ぜひ夏休みなどに挑戦してみてください。



この本は、ヘロドトスが、自分の生まれたちょっと前から起きていたペルシア戦争について書いたものです。
ペルシア戦争は、紀元前5世紀の初頭、アテネ、スパルタを中心とするギリシアの都市国家とペルシア帝国とのあいだで起こった戦争です。きっかけは、ペルシアのちょうど腹の部分にあたるミレトスという地域を中心としたギリシア人殖民地が、ペルシアからの解放を求めて叛乱を起こしたことにあります。結局この叛乱は失敗し、これを契機としてペルシア帝国は四度にわたってギリシアに侵攻し、43年つづくペルシア戦争へと至るのです。

戦争は文化があるところにしか起こりません。文化や文明があるところ戦争はむしろなくなるはずでありますが、どうも人類の歴史はそうではない。戦争というのは、ある共同体が首長権力者のもとに結集して、対外的に打ってでることなくして始まりませんから、首長権力の成立、結集に際してのシンボルとなるような歴史観の成立が前提されている必要があります。

このあたりのことを、哲学者で『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られる和辻哲郎は、戦前に書かれた『倫理学』のなかでこういっています。国家は戦争において形成され戦争において成育する、というのです。「国家は歴史を形成する。従って歴史は国家の自覚であるといってよい。自己の認識は必ず他を媒介とするものであるが、国家もまたおのれを自覚するためには他の国家との交渉をまたなくてはならぬ。そうしてそこに得られる自覚が、歴史的自覚として、歴史を形成するのである」。他の国家との交渉、といった場合、そのありうる形態の一つを戦争、と考えてみればよいわけです。

さて、ペルシア帝国に目を移してみれば、ペルシアは現在のイランの地域を中心に位置する大帝国で、アケメネス王朝によって統治されていました。一方、ギリシアは地中海に位置し、ポリスという多くの都市国家が成立した文明圏でした。

当時のギリシア文明をつくった人々から見れば、ペルシア帝国は東の異邦人で「バルバロイ」です。バルバロイとは、意味不明な言葉を話す人という意味のギリシア語で、英語のbarbarian(野蛮人)の語源でもあります。
ペルシア戦争は、ギリシア都市国家とペルシア帝国による東西文明の戦いでした。



ヘロドトスは、『歴史』の冒頭に、このような可愛いことを正直に書いています。いま、可愛いといいましたが、馬鹿にしているのではもちろんなく、出身地の後に名前を名乗る、その響がなんだか可愛いというわけです。

本書はハリカルナッソス出身のヘロドトスが、人間界の出来事が時の移ろうとともに忘り去られ、ギリシア人や異邦人(バルバロイ)の果たした偉大な驚嘆ずき事蹟の数々――とりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情――も、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査したところを書き述べた。

戦争の原因というものは忘れ去られるだろう、だから自分はギリシア人の側からこの戦争を書きます、とヘロドトスは言っている。彼はギリシア側から戦争を書きますが、同時にペルシア人がどのように戦争を書いているのかも合わせて書き写していきました。
これが、彼が「歴史の父」といわれる所以で、文明が異なる東西の国、ふたつの立場を書いたのですね。

ヘロドトスはここで「研究調査」という言葉を用いていますが、この言葉は、ギリシア語ヒストリエーの、判明している限り最古の用例であると、桜井万里子先生の『ヘロドトスとトゥキュディデス』に書かれています。つまり、ヘロドトスが「歴史」を書き始めた時代、世界には歴史という言葉も歴史家という言葉もなかったわけです。

紀元前5世紀の戦いと聞くと、ものすごく遠い昔のことだと思うでしょう。けれど、こういう東西文明のがっぷり四つの戦いというのは、いつの時代でも起きることです。

たとえば20世紀初頭、1900年代に起こった大きな戦争で、やはり東西の抗争であり、文化の戦いでもあった戦争は何か、あげられますか? 少し前、みなさんのお父さんやお祖父さんが、『坂の上の雲』というテレビドラマを夢中になって観ていたかもしれませんが(12月からシリーズ第3部が始まりますね)、日露戦争も同じ構造で起きている戦いだといえます。

当時、ロシア帝国はニコライ2世という皇帝がおさめていました。ロシアはスラブ系の白人種で、宗教はロシア聖教というキリスト教の一種を信仰している国でした。
ロシア側からすれば、日本は黄色人種で、京都出身の天皇というものがおさめている非キリスト教国と見えていました。日本という国は、中国大陸の東、朝鮮半島の南にある小さな国だと思っている。

ロシアにとっては、なぜ日本という国が、朝鮮半島の安全保障に熱心で、またロシアの満州占領(1900年、中国で起きた排外主義運動・義和団の乱によって起きた北清事変で、ロシアは鉄道権益を保護するためとして北満州を占領した)に対して、なぜ日本が文句をつけるのか、全然理解できなかったわけです。

ある意味、ふたつの異なる東西文明の国によって戦かわれた近代的な戦争のひとつが日露戦争でした。

私が歴史学でやっていることのひとつは、このように、過去をずっと昔の出来事だ、理解不能だと捉えるのではなく、人々はきっといつの時代でも同じような心根でものごとを理解したり感じたりしているはずだ、と想像してみるところにあります。ジョン・ダワーという、ピューリッツァー賞を受賞した歴史学者の方がいっていたと思いますが、歴史学者とは、複雑さのなかに、あるかなしかの法則性を見いだす人、だそうです。私は自分自身、歴史学者を名乗っているわけですので、この言葉に深く共感をおぼえます。


戦争は、「ことば」から

ヘロドトスが「歴史学の父」と呼ばれた理由は、敵と味方の双方の意見を書いたということと、他にもうひとつあります。それは言葉の戦いに注目したという点です。
古代ギリシアの思想については、政治経済や現代社会で勉強すると思いますが、現在の民主主義の原型はここで生まれました。

たとえば太平洋戦争では、国民は戦争の決定に直接は関与できず、大本営政府連絡会議や御前会議などの場で、政府、軍部、天皇が政策決定に与りました。
一方、ギリシアの都市国家では直接民主制といって、市民権を持っている市民は、実際に政治の決定の場に参加できました。アテネでは、18歳以上の市民権を持っている人は、プニュクスという丘で行われる会議に参加し、戦争に対して賛成か反対かの投票をすることができる。

だから、ギリシアの都市国家にとって、戦争するかしないか、これは、今こそ戦争すべきであると説得に駆けつけた、同盟国の指導者や将軍など、そのような人々が市民に向かっておこなう演説、それで決せられた。直接民主制というのは、このような場面で活きてきます。

ですから、歴史の父、ヘロドトスが、共同体の中で醸成された敵国への憎悪、抗戦意識など、戦争へと市民を動員するための説得の論理のかたまりである、「演説」に着目したのは、まったくもって素晴らしい着眼でした。演説はなかなか残りにくいです。ヘロドトスは、口伝えで遺された記録を集めてまわる。いっぽうで、墓碑銘に遺された、将軍や政治家の演説の言葉、戦争に際して遺した言葉などを採集してまわるわけです。

では、ヘロドトスが書きのこした演説の様子を見てみましょう。
これは、ギリシアの都市国家であるスパルタの将軍が、アテネの将軍に向かって呼びかけた言葉です。スパルタとアテネは、のちに仲が悪くなってしまうのですが、ペルシア戦争のときは同じギリシアのポリス同士、手を結んでいます。

アテネ人諸君、ギリシアの自由が守られるか敵に屈服するかの乾坤一擲(けんこんいってき)の戦いを目前に控えて、我々のすべきことは力の限り戦うあるのみである。

乾坤一擲というのは、運命をかけた大勝負のことです。ここで注目したいのは、ペルシアに対する憎悪の言葉で戦争を煽っていないことです。むしろ、自分たちギリシア人にとっての価値、最も大切な価値である、「自由」、この点に絞って、さあ立ち上がれ、と市民に呼びかけていることですね。ギリシアの自由を守れるかどうか、それが戦争をする理由なのだと位置づけている。

自由が守られるかどうかの戦い、というスローガンは、非常に新しく響きます。これは深いでしょう。2001年の9.11以降のアメリカがアルカイーダに向かって叫んでもおかしくない響だと思います。

ヘロドトスが「歴史学」の父といわれる所以は、敵への敵愾心、抗戦意識がどのような言葉で煽られるのか、それをリアルに書き留めたことにあると思います。そして、自国の戦争の戦い方を検証するだけでなく、相手方についても、同様の作業をおこなったことです。

自分たちに都合のよいこと、手前勝手な歴史叙述をおこなってしまいたい、そのような誘惑は、どの国でもどの時代でもありうることです。しかし、ヘロドトスはそうはしなかった。自国民を戦争へとかりたてたのも言葉、敵国と戦争をしなければならないと国民をふるいたたせたのも言葉。「歴史の父」は、このように、非常に怜悧な目で、戦争の原因が何であったのかを抉り出していったのです。

(後編2へとつづく)

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[著者紹介]
著者による朝日出版社の本
それでも、日本人は「戦争」を選んだ
それでも、日本人は「戦争」を選んだ