12.24.2013


岸 政彦
第1回 イントロダクション


本ブログで2013年末から1年間にわたって連載していた『断片的なものの社会学』が、このたび書籍になります。2015年6月はじめから書店店頭に並ぶ予定です。これまで連載を読んでくださってありがとうございました。書き下ろし4本に、『新潮』および『早稲田文学』掲載のエッセイを加えて1冊になります。どうぞよろしくお願いいたします!(編集部)


もう十年以上前にもなるだろうか、ある夜遅く、テレビのニュース番組に、天野祐吉が出ていた。キャスターは筑紫哲也だったように思う。イランだかイラクだかの話をしていて、筑紫が「そこでけが人が」と言ったとき、天野が小声で「毛蟹?」と言った。筑紫は「いえ、けが人です」と答え、ああそう、という感じで、そのまま話は進んでいった。


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私は社会学というものを仕事にしている。特に、人びとに直接お会いして、ひとりひとりのお話を聞く、というやり方で、その仕事をしている。主なフィールドは沖縄だが、他にも被差別部落でも聞き取りをしている。また、自分の人生で出会ったさまざまな人びと、セクシュアルマイノリティや摂食障害の当事者、ヤクザ、ニューハーフ、ゲイ、外国人などに、個人的に聞き取りをお願いすることもしばしばある。さらに、これらの「マイノリティ」と呼ばれる人びとだけでなく、教員や公務員、大企業の社員など、安定した人生というものを手にした人びとにも、その生い立ちの物語を語っていただいている。いずれにせよ、私はこうした個人の生活史を聞き取りながら、社会というものを考えてきた。





調査者としての私は、聞き取りをした人びとと個人的な友人になることもかなり多いし、また逆に、個人的な友人にあらためてインタビューをお願いすることも少なくない。しかし、多くの場合は、私と調査対象の方々との出会いやつながりは、断片的で一時的なものである。さまざまなつてをたどって、見ず知らずの方に、一時間か二時間のインタビューを依頼する。私と人びととのつながりは、この短い時間だけである。この限られた時間のなかで、その人びとの人生の、いくつかの断片的な語りを聞く。インタビューが終わったあとは二度と会わない方も多い。顔も名前もわからない方に、電話でインタビューしたことも何度かある。

こうした断片的な出会いで語られてきた断片的な人生の記録を、それがそのままその人の人生だと、あるいは、それがそのままその人が属する集団の運命だと、一般化し全体化することは、ひとつの暴力である。

私たち社会学者は、仕事として他人の語りを分析しなければならない。それは要するに、そうした暴力と無縁ではいられない、ということである。社会学者がこの問題にどう向き合うかは、それはそれぞれの社会学者の課題としてある。

社会学とはこのような仕事なのだが、その仕事を離れて、聞き取り調査で得られた断片的な出会いの断片的な語りそのもの、全体化も一般化もできないような人生の破片に、強く惹かれるときがある。

そしてもちろん、調査という仕事でなくても、日常的な暮らしのなかでも、そのような欠片たちと、よく出会うことがある。分析も一般化もできないような、これらの「小さなものたち」に、こちらの側から過剰な意味を勝手に与えることはできないけれど、それでもそれらには独特の輝きがあり、そこから新たな想像がはじまり、また別の物語が紡がれていく。


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ある聞き取り調査で、古い団地に行ったことがある。その団地に住む、70歳代の男性に話を聞いた。もともとはミュージシャンで、戦後の関西のキャバレーをドサ回りしていた。数々の昭和の有名人が流行の歌を歌うその後ろで、明け方まで伴奏をしていたという。私も20年ほど前の大阪の、クラブやライブハウスでジャズを演奏していたので、かろうじて共通の店や知り合いがいて、インタビューは盛り上がった。

男性は、ミュージシャンの仕事に区切りを付けたあと、夜の世界でできたつながりを辿って、さまざまな商売に乗り出す。そして、ある日とつぜん失踪する。

数年後に妻のもとに帰ってきた彼は、とつぜん金持ちになっていたという。「東京で不動産屋をしていた」というが、さだかではない。そのあと新興宗教の教祖になり、さらにまたいろいろあって、けっきょくは全財産を失い、現在は妻とふたりで、関西の片隅の小さな古い団地で、静かに暮らしている。

インタビューの終わりのほうで、男性がとつぜん立ち上がり、奥のふすまを勢いよく開けた。そこには、二十着ほどの、見事なミンクの毛皮のロングコートがずらりと並んでいた。そして、同行していた私の連れ合いに、こう言った。

「ねえちゃん、一着やるから、好きなもん持ってって」

もちろん丁重にお断りした。

それにしても、これが人生だな、と思う。もちろん、それは差別や貧困とたたかうなかで、必死に選び取られた人生で、他人が生半可にいいとか悪いとか言うことは許されないことだが、それにしても彼の生活史の語りは、いつまでも印象に残っている。結局どの論文にも報告書にも使えなかったけれども。


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丸山里美の『女性ホームレスとして生きる──排除と貧困の社会学』は、おそらく日本で唯一、女性ホームレスについて書かれた社会学の本である。丸山は、女性ホームレスを支援する施設だけでなく、実際に彼女たちが暮らす公園に何度も通い、ときには寝食を共にして、たくさんの生活史を聞き取っている。

主婦として安定した暮らしをしていた女性が、とつぜん路上に押し出される。起業して社長を経験した方さえいる。あるいは、極貧の家庭に生まれ、まともな教育を受ける機会を奪われ、ずっと底辺の暮らしをしてきた女性もいる。身体障碍や精神障碍、知的障碍を抱えている方もいる。

ある女性は、貧しい暮らしのなかである男性と結婚して、夫の連れ子を養っていたのだが、夫が刑務所に入ったことをきっかけに、「他人の子どもを育てることに疑問を感じて」ある日とつぜん家を出ていってしまう。そしていくつかの職業を転々としたあと、いまでは公園で暮らしている。

私たちの人生の、つながりのもろさ、というものを感じる。いいとか悪いとかということではない。これが私たちの暮らしなのである。





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貧乏な専業非常勤としてかつかつの生活をしていたとき、私は非常勤先で、ある女子学生と出会った。とても人なつこいやつで、連れあいと二人暮らしの私の家にも、なんどか遊びに来た。

彼女には両親がいない。亡くなったのではなく、まだ小さい子どものころに、お互いが別の相手を作り、そしてその相手とのあいだに子どもをつくり、そしてそこでそれぞれが、所帯を持ってしまったのだ。

残された彼女をふくむ5人きょうだいは、そのまま子どもたちだけで暮らすことになった。いちばん上の姉がそのとき高校生で、これが母親がわりとなり、全員で交替でバイトや家事をして、まだ小さい弟や妹の面倒をみていた。食事は自分たちで用意したり、どこかで買ってきたり、出て行った母親が近所に住んでいて、おかずを持ってきたり、そんな感じで毎日を必死で暮らしていた。

出ていった父親は「昔気質」で、困ったひとを見たらほっておけない性格だった。「うちな、一時期、知らんおばあちゃんおってん。」身寄りのない年寄りを父親が勝手にひきとり、子どもたちだけで暮らしている家に勝手に住まわせたのだ。朝起きたら知らないおばあさんが横で寝ていて、小さな妹や弟たちはおどろいて泣き叫んだらしいが、それもすぐに日常の風景になり、「けっきょくそのおばあちゃんの葬式、うちで出してん。」また、誰の子かわからない赤ちゃんを、一時期子どもたちだけで育てていたこともあった。

ほかにもいろいろなエピソードを聞いた。「おまえの話おもろいな。これいつか、本に書いてええか?」「ぜんぜんええよ、書いて書いてー。」


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彼女にももう何年も会ってない。たまに思い出して、元気かなあと思うが、おそらく元気だろうと思うので、こちらから連絡はしていないが、携帯のメモリーには残っていて、これだけは絶対に消さないでおこうと思っている。

最後に会ったのはいつだっただろうか。八、九年前の大晦日の真夜中に、とつぜん電話がかかってきて、いまから先生ん家に行ってええか、という。ええよ、というと、すぐに彼女は、両手にいっぱいの花束を持って玄関にあらわれた。驚いていると、そのままずかずかと家の中に入ってきて、泥だらけの両手で、そのへんにあった花瓶に入るだけの花を生けて、ダイニングテーブルを花で埋め尽くしたあと、「すんません、おじゃましました。ほなよいお年を」と行って、あっさりと帰っていった。大晦日に屋台で花を売るバイトをしていて、余った花を持ってきてくれたのだった。





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仕事でよく那覇に出張する。先日、二週間ほど那覇に滞在しているときに、夜おそく、県庁あたりから浦添の手前まで、国道五八号線沿いにウォーキングした。帰り道、泊埠頭の大きなリゾートホテルの前を通りかかった。

真っ暗な巨大なホテルの壁に、規則正しく窓が並んでいる。その窓のあるところがちょうどエレベーターホールになっている。各階のエレベーターの扉が、縦にならんだそれぞれの窓越しに小さく見えている。歩いている私とその窓たちとは数百メートルの距離がある。

なんとなくじっとその窓を見ながら歩いていると、七、八階ぐらいだろうか、ひとつの窓のところにエレベーターが止まり、扉があいて、乗り込んでいく誰かの頭がちらりと見えた。エレベーターの扉はすぐに閉まり、もうそのころには私もそのホテルの前を通り過ぎていた。

ほんの数秒のできごとで、ただちらりと一瞬そういう光景を見た、というだけのことなのだが、私はこのとき、この誰かわからない他人と、そのホテルのエレベーターに「一緒に乗り合わせた」のだと思う。顔も名前も、性別も年齢も、沖縄に来た理由もエレベーターに乗った目的も、まったく何もわからない、知らない誰かが、たまたまあるホテルのある階のあるエレベーターに乗り込むその一瞬を、私は、夜の街を歩いているときにたまたま目にした。そのことは、私しか知らない。

私はこうした風景をよく記憶している。


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小学校に入る前ぐらいのときに奇妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。

私はいちども、それらに感情移入をしたことがなかった。名前をつけて擬人化したり、自分の孤独を投影したり、小石と自分との密かな会話を想像したりしたことも、いちどもなかった。そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。そしてそのとき、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そのことに陶酔していたのである。

そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「膨大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ。

これは「何の意味もないように見えるものも、手にとってみるとかけがえのない固有の存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」なのではない。

私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。


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私たちは、それぞれ「自分の人生」を生きていて、それはそのままその私たちの「全世界」でもある。しかし、私たちは、それぞれの全世界を生きながら、他人とは断片的にしかつながることができない。私たちはそれぞれ、徹底的にひとりきりのままで、自分の人生を生きるしかない。だれか他人と、一時期のあいだ「一緒に暮らす」ことはできても、その他人が、私たちの自分の人生の「中に入ってきてくれる」ことはない。そして、さらに、私たちが閉じこめられている「自分の人生」そのものも、あまりにももろい。

しかし、ふとしたきっかけでおおきく崩れさった自分の人生の廃墟から、私たちは何度も立ち上がる。そして、他者とのあいだに断片的なつながりしか作れなかったとしても、その断片的なつながりから私たちは、たとえ一瞬のあいだでも、おおきな喜びを得ることができる。


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以上、記憶に残る小さな「お話」を、思いつくままに書き連ねてみた。この連載のタイトルは「断片的なものの社会学」だが、とくに社会学的な議論をするわけではない。題材となる話も、社会学的な調査で得られたものばかりではない。

だが、こうした断片的な出会い、断片的な語り、断片的なエピソードから、できるかぎり、人とつながって生きることや、人と離れてひとりで生きることなどについて考えてみたい。例えば香港の刑務所で過ごした十年間という時間の長さ、ガラスの灰皿の破片で指をつめたヤクザが感じた痛み、有名なセクハラ事件の加害者の手記における世界への憎悪などを手がかりに、思いつくままに「断片的なものの社会学」について、書いていこうと思う。あらかじめ決められた、統一したテーマもないし、とくにはっきりした結論があるわけでもないが、お時間があれば、お付き合いください。


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写真は友人の西本明生氏による( http://akionishimoto.com/ )。私は彼の「何も写っていない写真」に感銘を受け、作品をこの連載で使わせてほしい、とお願いした。写真の使用を快諾してくれた氏に感謝する。



著者紹介
岸 政彦(きし・まさひこ)