11.22.2017

鼎談:「触れること」をめぐる冒険


触感 × 皮膚 × 文学

「触れること」をめぐる冒険


仲谷正史+傳田光洋+阿部公彦


文学にも「感触」を感じる? 皮膚感覚がパーソナリティと結びつく? 文学の触覚から、触覚の文学へ。『触楽入門』の刊行を記念して開催したトークイベント(2016年3月15日、青山ブックセンター本店)をもとに、『早稲田文学』2016年夏号に掲載された鼎談を、同誌のご厚意で公開いたします。(編集部)

仲谷   『触楽入門』の著者の仲谷と申します。僕は触覚の神経科学の研究をしていまして、触ることに新しい価値を与えられないか、触る文化みたいなものが作れないかと考えて、二〇〇七年に「テクタイル」という活動を立ち上げました。新しい触覚の技術をみなさんにお見せする展示会や、触ることに親しむワークショップを行っています。

僕が資生堂に勤めていたとき、だいたい二年強、傳田でんだ光洋さんとお仕事をする機会を得ました。傳田さんは二五年以上、皮膚の研究をされていて、この数年は皮膚感覚についても新しい仮説を提唱されています。それだけでなく、文学にもアートにも造詣が深い方です。

阿部公彦さんとはじめてお会いしたのは、阿部公彦さんがメンバーとなっている「飯田橋文学会」のイベントで、谷川俊太郎さんがゲストでいらっしゃったときでした。そのあと、上梓じょうしした『触楽入門』をお送りしましたところ、ツイッターで感想を書いてくださって感激しました。阿部さんは傳田さんの『皮膚感覚と人間のこころ』についても、紀伊國屋の書評サイト「書評空間」にてお書きになられていて、でしたら大胆にもこのお二人をお呼びしてお話ししたら面白いのではないかと思いまして、この会を開催する運びとなりました。

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触り心地の振れ幅
仲谷   『触楽入門』では、アートだったり、細胞の皮膚科学の話だったり、エンジニアリングの話だったりと、かなりばらばらの話をしています。いろいろな切り口で「触覚」を見てほしいというのがこの本の狙いでした。

触覚のひろがりを示すひとつの例として、アートの話からはじめたいと思います。

先日、豊島てしま美術館に行きました。瀬戸内海に浮かぶ豊島という島に、内藤礼さんの作品だけを展示する美術館があります。説明するのはちょっと野暮なのですが、床に撥水加工がされていまして、そろそろと水が出て来るんですね。それをただ眺めるような空間になっています。で、ときどき曇ったり、パーッと晴れたりといった変化を身体で感じて楽しむ作品です。

傳田   その場に行かないとわからないアートですよね。五感に訴えるというか。

阿部   残念ながら僕は行ったことがないのですが、「こういうふうにせよ」というようなことは書いてあるのですか。

傳田   たしか「靴を脱いで」、あと「静かに」とありましたね。あとはただ散策してください、と。相当広い空間で、上の方にぽかんと穴が空いていて、空の動きが床に反映される。

仲谷   作品の名前は「母型」といって、たしかに非常に包み込まれたような感覚になる。内藤礼さんが二〇一五年一〇月に出された作品集のタイトルは『祝福』と言いますが、地上に生まれてきたことを祝福されたような気分になる場所です。こういった空間全体から受ける身体感覚も「触覚」のひとつととらえています。

それから、『触楽入門』のなかにも書きましたが、「音」にも「触覚」があると僕は思っていて、例えば、ASMRという、ある種類の音を聴くことで非常に心地いい感覚になる現象があります。こうした点は、文学の「読み心地」という感覚にもつながってくるのかなと思っています。触り心地というのは、これくらい振れ幅が広いものなんですね。

阿部   なぜ先ほど美術館の「指示」についてお聞きしたかというと、ニューヨークのメトロポリタン美術館におもしろい解説があったからなんです。あそこにはポロックの作品が何点か展示されていますが、ポロックは抽象のなかでもかなり強烈なものなので、今ひとつピンとこないという人も多いようです。そんな人のために、ちょっとした鑑賞の「やり方」が示してある。

まず「目をつぶってください」、そして「絵の前に立ち、そこでパッと目を開けてください」とある。私自身はポロックはもともと大好きなんですが、あえてその通りにやってみました。すると、たしかに違うんです。ワッと包まれる感じがある。さっき仲谷さんが言っていた「くるまれ感」というのはある種の作品において大事だな、と今あらためて思い出しました。

これはひょっとすると、二〇世紀以降に特有の作品との接し方なのかもしれません。二〇世紀の絵の特徴だと私が思っているのは、奥行きではなく「せり出し」です。こちら側に出てくる感じを表現している人がポロック以外にもたくさんいる。そのスイッチを切り替えると、ピンとこない人も楽しめるのかな、と思ったりしました。

私自身で言うと、絵を見ながらもぐもぐ口を動かす癖があるんですね。最近なるべくやめるようにしてはいるんですけど(笑)。

仲谷   どういうときに口を動かすんですか。

阿部   はっきりと言葉にしづらいのですが、口を動かしながら、表面の感じとか線のリズムみたいなものを体感してるようです。無意識のうちにやっています。あるとき美術館の人に「物を食べないでください」と言われたことがあり、それ以来おさえるようにしているんですが、やっぱり口を動かしたほうが気持ちよく絵が見られます。

仲谷   すごく身体的ですね。

阿部   絵ってそういうところがあると思うんですね。一瞬で見られるものではなくて、時間的な経過を経て見られるものなので、時間経過を身体で感じるようなプロセスが必要なのかなと思います。

今日になって思い出したのですが、Abbie GarringtonのHaptic Modernism: Touch and the Tactile in Modernist Writing (Edinburgh UP, 2013) という本があります。日本語に意訳すると『モダニズムの触覚』といった書名になるでしょうか。この本のテーマは、モダニズムのころに、文学が異様に触覚にこだわるようになった、ということです。

その理由として彼はこういうことを言っています。二〇世紀のはじめに、通信技術や、X線、自動車、エンジン、いろいろなものが発達して、人間の等身大の感覚とは違うモノサシがあまりに多く登場した。そのために人間は「皮膚の不安」みたいなものにおちいったのではないか。それで作家たちは、むしろ手触りというものにりつかれて、手触りそのものを書くようになったし、文章の書き方を通して手触りを実感させるようになった、と。

この本はつい二、三年前に出たもので、蓮實重彥はすみしげひこさんの『表層批評宣言』をはじめとしてもっと前にも「表層」を話題にした人はいましたが、触覚そのものが扱われるようになったのはわりと最近のように思います。美術、特に絵画に関しては、二〇世紀になって画家が表面に回帰したということはもともとよく言われます。つまり、二〇世紀以前は遠近法を使って奥行きがある画面を書こうとしていたのに、二〇世紀になると表面そのものを見せる、表面そのものを感じさせるようになる、と。確かに、キュビズムにしても抽象主義にしても、奥行きがない。奥行きがないと、否応なく表面が出てしまう。これがちょうどモダニズムの時期と重なっていて、どちらが最初かはわからないけれど、文学でも絵画でも、表面へのこだわりというのがこの百年ぐらいで出てきた。

傳田   なるほど、そうですね。


弱さと触覚
仲谷   阿部さんのご著書『幼さという戦略』では、声を大きくすることで意見を通すのではなく、弱く見せることで相手の譲歩を引き出す、「弱さ」の逆説的な強さが描かれていました。触覚もまた、視聴覚に比べて「弱いメディア」なのではないでしょうか。そうした触覚性は文学のなかでどのようにあらわれているのでしょう。




阿部   『幼さという戦略』は、幼い人の持つ語り口が意外と力を持つというテーマで、いろいろな文学作品を見ていくというものでした。本のなかで取り上げていない例を挙げると、ウィリアム・フォークナーという作家の『響きと怒り』という有名な長編小説があります。この最初の章はすごく衝撃的です。なぜかというと、語り手が知的障害者で、普通に読むとほとんど理解しがたい語りになっている。

ここで面白いのは、知的障害者を語り手とすることで、話を抽象化したりまとめたりせず、まさに皮膚感覚そのもののような語りがあらわれているところです。まるで皮膚感覚の権化ごんげとなって、ぜんぶを皮膚で語ろうとしているかのようなのです。傳田さんの『皮膚感覚と人間のこころ』にこのことと関係するおもしろい一節があるので引いてみましょう。


傳田光洋
『皮膚感覚と人間のこころ』



多細胞生物が現われ、全身にいきわたる神経網が形成されるようになると、感覚で得られた情報を再構築しはじめます。それは、大きくなった個体が、環境の変化に対して、より効率よく対処するための有効な手だてです。そのように処理された感覚情報をハンフリー博士は知覚と定義します。そして進化に伴って複雑になった知覚を統御するために「自己意識」が必要になってきた、というのです。個人の意識は物理的な実体のあるものではなく、さまざまな脳の生理学的状態であって、それ以上のものではないのです。

つまり、感覚というのは元々はばらばらなものなのに、そこに「統合」というフィクションを持ってきたのが人間の脳だ、ということですが、『響きと怒り』では、そうした脳によるフィクション仮構以前の、ばらばらの感覚がそのまま出てくる。それを読んでいると妙に興奮するのは、こちらもそうした統合以前のばらばらの感覚というものを身体で知っているからではないでしょうか。

もうひとつ、二〇一一年に書かれた、今村夏子さんの『こちらあみ子』という小説があります。表題作の主人公のあみ子には、はっきりとは書いていないけれど、さっきのフォークナーと同様、明らかに軽度の知的障害または発達障害を連想させる何かがある。

この小説は『響きと怒り』ほど実験的ではなく、語りが完全にあみ子の視点と一体化しているわけではありません。何となく、距離を置いた語り手があみ子を見守っているような気配もある。その一方で、かなり両者が重なるところもある。とにかく語り手があみ子の心理を外から見たり、ちょっと踏みこんで内側から描いたりと、けっこう自在に距離感を調節しているところがおもしろく、引きこまれてしまうわけです。その中にまさに皮膚感覚だなという箇所があります。

あみ子は幼馴染の「のり君」が好きで、のり君のことばかり思っているようです。それに対してのり君は、おまえ気持ち悪い、あっちいけと返す。あみ子が「好き」というと「殺す」と返ってくる(笑)。「好き」、「殺す」という会話が続いて、あみ子はのり君にいきなり殴られる。しかも、かなりぼこぼこにされて、歯が何本も折れて、ひどいことになる。それでお医者さんが麻酔をしてくれて、ちょっと痛みがゆるんだところを描いたのが次の一節です。

ゆるやかで心地良い振動に加えて痛み止めの薬が効き始めたのか、そのうち頭のてっぺんに座布団三枚を重ねてのせているような、振り払いたいけれど面倒くさい、別にどっちでもいいような投げやりな重みに覆われた。

あみ子は他者の視点に立ったり共感したりするということがうまくできない人として描かれます。そんな設定が活きてる箇所です。ふつうの大人のように統合されたり、整理されたりしていない、原始的な「幼さ」や野蛮さ、非論理的でわけのわからないものが入ってくることで、独特の感覚、ふつうの人ではキャッチできない感覚が表現できるんだな、と感じました。


読み心地のなかにある触覚
阿部   お二人の本を読みながら、触覚は、「口」から始まるということを、つくづく感じました。フロイトも、エロスは最初は口からと考えて「口唇期」ということを言いましたが、たしかに最初は「口」なんです。

詩のほうから考えてみますと、「言葉」と「物」の世界はどうしても分裂しがちなんですが、詩にはそれを魔術的につなぐような働きがある。そのひとつのあり方として、語ることを通して物を実感させる、ということがある。口の感覚によって、言葉と物をつなぐんです。

シルヴィア・プラスという詩人の有名な「ダディ」という詩があります。語り手は心を半ば病んでいるような人で(シルヴィア・プラス自身も心を病んでいて若くして自殺してしまうのですけれども)、十歳のときに亡くなってしまったお父さんをずっとうらんでいるんですね。実際にはお父さんは彼女が八歳のときに亡くなったようですが、詩の中ではなぜか十歳と設定されています。それは置いておくとして、彼女が、どうやってこのお父さんに対するゆがんだ感情を解消するかというと、時間を巻き戻し、自分が十歳のときに戻って、そのときのお父さんをあらためてやっつけるんです。そのとき彼女自身は、いかにも十歳らしい幼さのこもったしゃべり方をします。それを口のリアリズムとして表現するために、「ウー」という音をたくさん使うのです。例えばyou do not do, you do no doとか、daddy, I’m finally throughとか。とにかく詩を読んでいるとずっと「ウー」が耳につくんです。日本人でも赤ん坊はまず「ウー」とか言いますね。たぶん人間の発する音の中で一番原始的であり原初的なのではないかと思います。

これは極端な例なんですけど、詩では一般的に「いんを踏む」ということさらな方法のほかにも、「そこはかとなく特定の音を響かせる」ということが可能で、そのやり方は千差万別ですが、たとえばカサカサした音とか、ごちごちした音とか、逆ににゅるにゅるしたやわらかい音といったものが、詩人の持ち味になることがある。音の扱いに、詩人の個性や生理がよく出ます。詩はとくにそうですが、たぶん小説もそうです。

仲谷   『『チャタレー夫人の恋人』と身体知』(筑摩書房)という本をお書きになられている慶應義塾大学の武藤浩史先生から、ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』に、例えばsoftとかswiftlyとか、「S」の音が多く出てくるという話を伺ったことがあります。それを彼は、「すっと」「そっと」「静かに」といったサ行で翻訳する。すごく肉体的だなと思いました。

阿部   武藤さんは身体感覚にすごく興味がある方で、ご本人がダンスもされている。ロレンスの英語って、ある種ゴチゴチしていて、あまりすべらかではありません。流麗な英語を流麗な日本語にするのは比較的易しいと思うんですけど、流麗じゃない英語を、どのようにその「流麗じゃなさ」を保って訳すかというのが難しい。つい訳者って、わかりやすい日本語にしようとして訳文をつるつるにしてしまうんですよね。

最近の傾向として、基本的になるべく原文と訳文の語順を似せようとするような印象があります。柴田元幸さんなどは、語順もふくめて原文の手触りのようなものを上手に日本語訳に残します。つるつるにしないのがとてもうまい。

英語で一般的に言われているのは、たとえば詩の中で二重母音をたくさん使うとゆったりした雰囲気が出て瞑想的になったりするといったことです。メディテイションの「エイ」のような音を二重母音と呼びますが、これをたくさん使うと、ゆったりした感じになる。これは書いている側も多少意識的に使っているところがあると思いますが、これを日本語に翻訳するとき、うまく対応させるのが難しい。英語の抽象語はラテン語・フランス語系だから、メディテイションとかコンシダレーションとかコンテンプレーションとか、発音がやわらかい感じなんですけれども、日本語にするとどうしても漢語になる。そうすると逆にかたくなってしまうんですね。

仲谷   たしかに。


皮膚感覚で文学を読む
阿部   私が興味を持っていて、まだちゃんと議論として形にしていないもののひとつに、「寒さ」の問題があります。寒さって、小説によく出てくるんですね。特に欧米の文学は、北半球の比較的寒いところで書かれているものが多い。それが隔絶感というか、相手とうまくいかないという断絶の意識と重ねて描かれることが多いように思います。

それから、文学という形式そのものが「寒さ」というものと根本的につながっているように感じます。寒さについて書くと、内面について語りやすくなるのではないか。というのも、寒さは皮膚をディフェンス状態にする。そうするとウチとソトの境界がはっきりして、表向きにしていることと、内側で考えることとが異なる、という世界の構造が出てきて、それで小説が動いていく。

傳田   たしかにぬるま湯に浸かっていると、くつろいでしまって、ソトのことを考えなくなりますね。思弁的な小説家、例えばドストエフスキーも、寒いところにいた人ですものね。

ちょっと話がずれるかもしれませんが、皮膚関係のことを書いている作家として思い浮かんだのが、安部公房さんと筒井康隆さんでした。ふたりとも頻繁ひんぱんに皮膚の描写が出てくる。とくに六、七〇年代のいちばん過激だった時代の筒井さんの作品には、やたら気持ち悪い場面で皮膚とか皮膚病とかの描写が出てくる。ここで言いたくないようなネタもあるんですけど。腐りかけのたたみに寝転んでいたら顔の皮膚が畳になったとか。

仲谷   おお(笑)。

傳田   安部公房さんだと、彼の小説は皮膚感覚に異常があるんですね。『砂の女』も砂の感覚が執拗に描写されているし、『箱男』という作品には、男が段ボールに入って、覗き穴から外を見る場面で、非常に印象的なフレーズがあります。

〔覗き穴から外を見ると〕すべての光景から棘が抜け落ち、すべすべと丸っこく見える。すっかりなじんで、無害な物になり切っていたはずの、壁のしみ……乱雑に積み上げた古雑誌……アンテナの先が曲った小型テレビ……その上の吸い殻があふれかけているコンビーフの空罐、そうしたすべてが、思いもかけず棘だらけで、自分に無意識の緊張を強いていたことにあらためて気付かせられたのだ。

箱の中に入って皮膚感覚を遮断しているわけですね。そうすると急に、いままで感じていたとげとげしたものが丸っこく見えたという表現があって。生物としては皮膚感覚を遮断することは難しいんですが、箱男、そうか、あれは皮膚感覚の遮断だな、と。我々は、皮膚がなにかの角にぶつかると「痛い」と感じる。ところが皮膚のまわりに遮蔽壁を作るとそれを感じなくなる。これは今回発見でした。

文学における触覚の話で言えば、私は耳元でささやいてくるような小説が苦手なんです。内面を書くよりも、なにか光景を眺めているような、たんたんと時間の流れを書いている北杜夫の『楡家の人びと』とか、中上健次の『枯木灘』とか、そういうさらっとしたものが好きみたいです。

だから阿部さんの本を読ませていただいて、「これは困った」と思ったんです。私の苦手な『人間失格』とか、そういうのが取り上げられていた(笑)。阿部さんの本の中で、「『人間失格』は読んでいる自分に直接話しかけてくる」とありましたが、私はどうもそれが嫌で。それから、村上春樹さんの本は初期から読んでいて、ずっと好きだったんですが、『ノルウェイの森』でダメになった。なぜかと思ったら、村上さんは『ノルウェイの森』の前までは、登場人物に具体的な名前をつけていないんです。鼠とかシャツに描かれた208と209でしか区別がつかない双子の女の子とか。それが『ノルウェイの森』でワタナベとかリアルな名前がついた途端、なんだか生々しく感じてしまって。

阿部   村上春樹って、日本的な、湿潤な文学の風土を嫌ったんです。境界が曖昧で、ふすまの向こうから音が漏れ聞こえてくるような感覚ですね。

傳田   まさにそういうのが苦手です。

阿部   部屋にしっかり壁があって、プライヴェートな場所ができたのが一八世紀ぐらいだとして、そのころ近代小説が誕生したんですね。近代小説は部屋がないと生まれにくい。ところが日本の場合はちょっと違って、自己と他者の境界がそんなにはっきりしない環境から出てきているので、そうした「侵入感」みたいなものをむしろ多用している。

皮膚感覚って拡張的ですよね。皮膚は身体と外界を隔てる境界ですが、実はその境界線は延びていったり、逆に縮むこともあるという不思議な存在です。

仲谷   『触楽入門』でも触れましたが、道具を使うときのサルの脳活動を調べる実験で、どうやらサル、そしてヒトは、手にした道具の先端までを「自分の身体」だと認識しているらしいことがわかっています。身体の境界線は意外と曖昧で、変化しやすい。

阿部   それはいわゆる「共感」とも通じる。だから錯覚ではあっても、相手のなかに入って行けるわけです。おそらく傳田さんは、入っていったり、入ってこられたりすることにすごく敏感で、囁かれると本当に入ってきちゃう感覚になるんじゃないんでしょうか。多くの人はそこで免疫が働いて、ここまではいいけどここからはダメよ、というのがあるんだけど。

傳田   たぶん僕はアトピーだから、皮膚が敏感なんです。むやみに近づかないでほしいって気持ちがある(笑)。

阿部   なるほど。とはいえ私も花粉症なので、ひとごとと思えません(笑)。

傳田   みなさんそれぞれ好きな文学や好きな絵画があると思いますけれど、思いきり迫ってくるようなものが好きな人もいれば、それが嫌な人もいると。それはなにかしらその人の皮膚感覚が影響しているのかもしれないですよね。

阿部   それもかなり具体的な皮膚、傳田さんが研究しているケラチノサイト(表皮を構成する細胞)とつながっているかもしれない。皮膚はみな千差万別で、その人の皮膚を背負って生まれてきたわけだから。

傳田   医学的には、皮膚感覚と精神疾患の相関関係に関する臨床報告は沢山あるんですよ。

たとえばアトピー性皮膚炎の患者さんにうつが多い。これは単純にかゆみを感じるストレスからだと思われていたのですが、どうも、皮膚が乾燥すると、炎症を起こす物質やストレスホルモンが皮膚から出て、脳の海馬にダメージを与えるということがわかってきています。皮膚の病気、皮膚のストレスが脳のダメージになるという可能性がある。だから私は、いろいろな環境変化がまず表皮で受容されて情報処理され、そして全身の生理、脳、情動に影響を与えるかもしれない、という仮説を立てて、それを論文にして発表しました。

どこがどう、つながっているのか詳細はまだ明らかになっていませんが、皮膚感覚というのは、その人の感性やパーソナリティに影響を与えていると思います。だからこそ、英語でも日本語と同じ表現があるらしいですね。「面の皮が厚い」は、英語でも「thick-skinned」と言ったりする。『神々の沈黙』を書いたジュリアン・ジェインズが、人間の性格表現にはやたら「skin」が出てくると指摘しています。日本語でも「学者肌」など、パーソナリティを表現するときに肌や皮膚が出てくる。人は大昔から皮膚がパーソナリティと結びついていることに気づいていたのではないでしょうか。


皮膚によって個人に戻る

阿部   『触楽入門』でいちばん面白いなと思ったのは、最後に出てくる「エモーショナル・リアリティ」というところです。バーチャル・リアリティは視聴覚で再現できるけれど、触覚が入って来ると、情動的なリアリティというものが再現できると。

触覚は、それがなんであるかを認知する機能はわりと弱くて、その前に感じちゃう。対象に対してそういう独特の関わり方をするので、いきなり向こうに入っちゃうというか、憑りつかれてしまうことがあるのかなという気がします。それってすごく危険にもなりうるけど、そういうものだということをあらかじめ言葉にしておけば、そこに防波堤ができるかもしれない。

いちばん最たる例では、「暴力」も触覚のひとつですよね。

仲谷   先日知人とのディスカッションで、身体と宗教の組み合わせというのは危険ですよ、という話になりました。みんなで同じ動作をするとその世界に入り込んでしまって、ある種の一体感が生まれてしまうということが起きやすいんです。

傳田   確かにそうですね。
ただ、僕は逆のことも言いたくて。皮膚感覚というのは、失われた自分を取り戻すきっかけになるものだと思うんですね。自分の皮膚感覚は自分でしか味わえない。一個の自分に戻るきっかけも、皮膚感覚はもたらしてくれると思うんですよね。

阿部   『驚きの皮膚』でまさにそこをテーマにされていましたよね。「システムと個人の関係」という。

傳田   システムについて考え始めたのは村上春樹さんのエルサレム賞の講演がきっかけでした。彼は「私たちはシステムという名の硬い壁に立ち向かう壊れやすい卵」であり、「私たちが作ったシステムに、私たちを搾取させてはいけない」と語ったのでした。個人に戻るツールのひとつとして「皮膚感覚に戻る」というのが、システムから抜け出すルートになるのかなと思っています。

<了>
出典:『早稲田文学』2016年夏号


小社刊行の著者の本

  
仲谷正史ほか著『触楽入門』  傳田光洋『第三の脳』

阿部公彦さんの新刊


『名作をいじる』
 ★あとがきにて、『触楽入門』と傳田光洋さんの『皮膚感覚と人間のこころ』を挙げていただいています。「私はこのお二人の著書を通して、あらためて「触る」ということの持つ深い意味を知り、「名作」にも触ってしまおう!と思うに至りました。」

プロフィール

仲谷正史(なかたに・まさし)
1979年、島根県生まれ。2008年、東京大学大学院情報理工学系研究科博士課程修了。同年、民間企業において触感評価技術の開発に従事。2012年8月より、共同研究先であるColumbia University Medical CenterにてPostdoctoral Research Fellow。Fishbone Tactile Illusionを心理学・工学の観点から評価した研究を発展させ、メルケル細胞の生理学研究に従事。現在はJST-ACCELプロジェクト「触原色に立脚した身体性メディア技術の基盤構築と応用展開」の特任研究員として参画。慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科にて特任准教授(非常勤)。教務・学務の傍ら、2007年に立ち上げたテクタイルの活動を通じ、触感デザイン普及にも携わる。著書に『触感をつくる』(岩波科学ライブラリー)『触楽入門』(朝日出版社)がある。


傳田光洋(でんだ・みつひろ)
1960年、兵庫県神戸市生まれ。資生堂グローバルイノベーションセンター主幹研究員。国立研究開発法人科学技術振興機構CREST研究者。京都大学工学部工業化学科卒。同大学院工学研究科分子工学専攻修士課程修了。94年、京都大学工学博士号取得。カリフォルニア大学サンフランシスコ校研究員を経て、2009年より現職。著書に、『皮膚は考える』(岩波科学ライブラリー)、『賢い皮膚――思考する最大の臓器』(ちくま新書)、『第三の脳 皮膚から考える命、こころ、世界』(朝日出版社)、『皮膚感覚と人間のこころ』(新潮選書)、『驚きの皮膚』(講談社)がある。


阿部公彦(あべ・きみひこ)
1966年生まれ。現在、東京大学文学部准教授。英米文学研究と文学一般の評論を行う。著書として『英詩のわかり方』、『英語文章読本』、『小説的思考のススメ』、『幼さという戦略――「かわいい」と成熟の物語作法』など啓蒙書、専門書としては『即興文学のつくり方』、『スローモーション考』、『文学を〈凝視する〉』(サントリー学芸賞受賞)、『詩的思考のめざめ』など、翻訳に『フランク・オコナー短編集』、マラマッド『魔法の樽 他十二編』がある。小説で1998年に早稲田文学新人賞受賞。