6.10.2011

時評 第4回

原発問題と四つの倫理学的例題

大澤真幸

原発事故の収束は見通しが立たず、事故による避難者数は約10万人と推計される。この三ヶ月の間に次々に明らかにされる事故対応の不備、齟齬、無策、隠蔽、糊塗。中部電力浜岡原発は停止に追い込まれ、圧倒的な不信感が日本を覆っているかに見える。ところが、脱原発派は多数ではない。先月、かろうじて「原発消極派は57%」と集計されたにとどまるのだ。青森県知事選でも、原発推進派の現職が三選を果たした。これだけの被害と不信を日ごと募らせても、なお原発と縁を切ろうとしないのはなぜか。経済効果では説明しがたい。そこにどんなメカニズムが働いているのか。(編集部)

昨年、NHK教育テレビの講義で注目を集めた、政治哲学者のマイケル・サンデルは、第一回目の講義で、倫理学者や哲学者の間ではよく知られている、次のような思考実験的な例題に言及している。今、あなたは電車の運転手である。しかも、不幸なことに、あなたの電車は、故障してブレーキが利かなくなっている。さらに不幸なことに、あなたの電車の前方の線路には、5人の作業員が仕事をしていて、あなたの電車が猛スピードで近づきつつあることにまったく気がつかない。このまま走り続けたら、あなたの電車は5人を轢き殺してしまうことになる。

だが、ここにちょうど、右側へと退避できる引き込み線があった。あなたがハンドルを右に切れば、電車は5人のところに突っ込まずにすむ。5人は助かるのだ。しかし、これで問題はすべて解決するわけではない。引き込み線の先にも1人の作業員がいて、彼もまた、電車にはまったく気づいていない。もしあなたが引き込み線の方へと電車の舵を切ったとしても、今度は、その1人を殺してしまうことになる。

このとき、あなたはどうすべきなのか、というのが例題である。これは、フィリッパ・フットというイギリスの哲学者が最初に作った例題だが、倫理学の論文にはよく引用されている。非常に難しい問題だからだ。

このとき、運転手であるあなたはどうすべてなのか。そのように問われたときにほとんどの人は、迷うのだが、それでも、右側へと回避して、やむなく1人を犠牲にすることを支持する人の方が多い。サンデルの講義での学生の反応もそうであった。多くの人は、5人を殺してしまうよりは、1人の方がまだましだと考える。

しかし、そうした論理、つまりより犠牲者の数が少なければ、ときに殺人をともなうような措置も正当化されるという論理が、それほど自明には正しくないということは、この例題の改訂版を作るとすぐにわかる。改訂版も、サンデルの講義で紹介されている。それは、次のようなものである。

やはりブレーキが故障したまま暴走する電車がある。電車の前方の線路に、電車に気づかない5人の作業員がいる、という設定も同じである。しかし、今度は、あなたは電車の運転手ではない。線路の上に陸橋がかかっていて、あなたは、陸橋の上から状況を眺めているのだ。あなたは外から列車や作業員を見て、列車のブレーキが故障しているらしいということ、作業員は仕事に集中していて列車に気づいていないこと、こうしたことを理解している。もう一つ、もとの例題との重要な違いは、列車が退避できる引き込み線がないことだ。線路は一本道である。

その代わり、あなたのすぐわき、あなたと並んで陸橋の上に、体重が百キロをはるかに超えると思われる太っちょがいる。太っちょは、線路の真上から乗り出すようにして、下を眺めている。この人物の体重はたいへん大きいが、このように乗り出しているので、あなたがほんの少し後ろから押せば、線路の上に落ちてしまう。そして、この太っちょが落ちる場所は、列車と作業員のちょうど中間になる。つまり、太っちょが線路に落ちれば、列車の進行を食い止めることができるのだ。無論、太っちょは、列車に轢かれて死んでしまうが…

このとき、あなたはどうすべきか? 事態の進行をただ眺めているだけで、5人の作業員が死んでもかまわない、と考えるのか? それとも、太っちょを突き落して、彼の犠牲の上に5人を救うのか?

このように問題を変えたとき、太っちょを突き落すべきだ、と答える人はぐんと少なくなる。元型となる例題で、引き込み線への退避を支持した人は、同じ根拠に基づいて、太っちょを突き落すこべきだと答えなくてはならないはずだが、実際には、そうならない。最初の例題で、「5人より1人」を理由にして引き込み線への回避を選んだ人も、太っちょを突き落すことには躊躇するのだ。「5人より1人」が正しいのであれば、喜んで、太っちょを突き落さなくてはならないはずなのに、どうしたことだろうか。

つまり、犠牲者の数がより多いとか少ないということは、実は、選択が倫理的に正しいことの根拠にはならないのである。問題を変形することで、そのことが明らかになる。

* * *

とはいえ、しかし、この二つの例題、つまり暴走する列車のもともとの例題(引き込み線版)と、改訂した例題(太っちょ版)は、問題をいくぶんかは解き易くするようにしてある。これらの問題をもっと難しくすることができる。列車の問題がそれでも解けそうな感じがするのは、どちらを選択するかによって犠牲者の数が異なるからである。一方では5人が死に、他方では1人が死ぬ。この問題をもっと解けない、真の難問にするには、どうしたらよいのか。

言うまでもない。どちらを選択したとしても、同じだけの犠牲がでる場合である。そういう状況は、いくらでもある。非常に有名なのは、映画『ソフィーの選択』における、ソフィーの状況である。

ウィリアム・スタイロンの小説を原作にもつこの映画で、主人公のソフィーは、ある不可能な選択の前に立たされる。彼女は、ナチス支配下のユダヤ人で、2人の子どもをもっている。あるとき、ナチの将校が、彼女に、2人の子どものうちのどちらかを選べ、と迫る。選ばれなかった方の子どもは、ガス室に送られ、殺される。もし彼女がどちらも選ばなかったときには、子どもは2人ともガス室に送られる。彼女はどうしたらよいのか?

これに確定的な答えを与えられる人は誰もいない。誰もが迷う。誰も決められない。ソフィー自身も決められない。彼女は、結局、苦しんだ末に、下の子を選び、上の子を犠牲にしてしまう。彼女は、そのことからくる罪の意識に苦しみ、結局、発狂してしまうのだ。

ソフィーの選択は、最も難しい倫理学的な問題だ。これは、列車の問題よりもさらに難問である。あまりに難問で、どうせ解けないので、サンデルは挙げなかったのだが、倫理学や哲学の論文では、しばしば使われてきた。

こうしてわれわれは、最も難しい倫理学の問題に到達したのだが、これを、今度は、易しい問題、簡単に解ける問題へと変形してみよう。ソフィーの選択を、列車の問題よりもずっと簡単な問題に変えてみるのだ。どのように変えればよいのか。

ソフィーの選択が困難なのは、彼女が選ばなければならないもの、犠牲にせざるをえないものが、どちらも最も貴重なもの、つまり人間の生命だったからだ。そこで、今度は、彼女が持っているものが、1人の子どもと、たとえばエアコンだったとしよう。ソフィーの家に、ある日、強盗が入ってくる。強盗は、子どもかエアコンのどちらかを寄こせ、という。強盗は、ソフィーがどちらも拒むのであれば、子どもを殺し、エアコンをぶっ壊してしまう、と脅迫する。彼女はどうすべきか。

答えは、あまりに簡単である。百パーセントの人が、子どもを取り、アエコンの方は強盗にあげてしまえ、と答えるだろう。迷いはない。簡単すぎて、哲学的な興味を引かない問題である。エアコンも、あったほうがよいには決まっているが、しかし、子どもを犠牲にする価値はない。この改訂されたソフィーの選択を、偽ソフィーの選択と呼ぶことにしよう。

すると、ここまで、四つの倫理的な選択に関する問題を提起してきた。難易度の順序は明らかであろう。不等号で、難しさの程度を表せば、次のようになる。

偽ソフィーの選択 < 暴走列車・引き込み線版 < 暴走列車・太っちょ版 < ソフィーの選択

なぜ、このような倫理学の問題をここで整理しているのか。これが、原発問題の困難を探り当てるための物差しになるからである。実は、この点については、すでに私は、一度、少しばかり論じているのだが(『atプラス』8号)、あらためて問題の核心を明らかにしておきたい。

* * *

その前に、確認しておきたい事実がある。あの3月11日以降、われわれは、われわれ日本人は、東京電力福島第一原発の事故の渦中にある。事故はいまだに収束していない。原発事故がどれほどの犠牲をもたらすかを、われわれは思い知らされている。原発事故は、共同体を丸ごとなくしてしまうほどの力をもっているのである。その「共同体」の範囲は、広くも狭くもなりうる。今のところ、われわれは比較的ついていて、考えられる共同体の範囲としては、最小に近いかもしれない。それでも、原発の近辺の市町村の人々は、そこから避難せざるをえなくなった。いつ戻って、また生活を続けることができるのか、見通しがたたないような状況である。もう少しわれわれの運が悪かったら、共同体の範囲は、もっともっと広かっただろう。

さらに、われわれは、事故以降、原発や放射線についてずいぶんと詳しくなった(私とともに連載している中川恵一先生の文章を読んでいる人も多いだろう)。おそらく、原発についての知識や放射線についての知識の量と正確さを、「IQ」のような指数で国際比較したら、今、日本は、ダントツで世界一であろう。原発の多いフランスやアメリカの人々よりも、現在の日本人の方が、原発の恐ろしさを正確に知っている。そもそも、知識以前に実感している。

こうした当たり前のことを前提にした上で、確認しておきたいことがある。原発事故からおよそ一ヶ月を経たところで、マスコミ各社は、相次いで、アンケート調査を行っている。その中で、原子力発電所の将来を問う質問が入っている。たいてい、「原発を増やすべき」「現状維持」「原発を減らすべき」「原発を全廃すべき」の四択である。前二者を原発積極派、後二者を原発消極派と呼ぶことにしよう。

どのような調査結果が予想されるか。この状況では、原発消極派(脱原発派)が圧倒的な多数になるはずではないだろうか。原発を今後も維持すべきか、それとも諦めるべきかという選択は、先の偽ソフィーの選択と同じ問題である。原発がうまく機能していれば、それは確かにいろいろと好都合であろう。エアコンも心置きなく使うことができる。景気もよくなって、仕事も得られる。しかし、原発を取ることは、人の命を、共同体の命を犠牲にするリスクを選ぶことである。つまり、原発を肯定するか、否定するかは、偽ソフィーと同じように、エアコンにするか、子どもの命をとるか、という選択だ。先に述べたように、偽ソフィーが何を選ぶべきかについては、ほぼ全員一致の合意が得られる。とするならば、原発をめぐるアンケートの結果の予想は簡単だ。脱原発を指向する消極派が圧倒的な多数になるだろう。

ところが、実際の調査結果は、そうはならないのだ! どの新聞社や放送局の調査結果もほとんど同じなので、ここでは、朝日新聞が、4月16日‐17日に行った調査の結果を紹介しておこう。それによると、弱い原発の肯定派、つまり「現状維持」が最も多い(51%)。強い推進派―「増やすべき」―を合わせると、6割近くになる(56%)。逆に言えば、原発への消極派は、4割であり、全廃すべきと答える人は1割ぐらいしかいない。

朝日は、2007年の同趣旨の調査と比較していて興味深い。それによると、さすがに強い推進派、つまり原発を増やす方がよいと答える人の比率はかなり減っている(13%→5%)。しかし、現状維持に関しては、ほとんど変わらない(図)。


これは、驚くような結果ではないか。この調査結果は、偽ソフィーが、エアコンの方を取ったことを意味している。あるいは、少なくとも、偽ソフィーは、子どもにしようかエアコンにしようか、そうとうに迷っているのだ。子ども(原発消極派)は、エアコン(原発積極派)を圧倒できずにいる。

さすがに、つい最近、つまり原発事故後の2ヶ月を経た後の調査では、少しばかり状況が変化してきている。この三週間ほどの調査では、原発消極派が、初めて、ほんの少しだが過半数を超えたのだ。たとえば、NHKが5月13日から三日間の間に行った調査によると、「原発を減らすべきだ」が43%と最も多く、「全廃」と合わせた原発消極派は57%になる。

脱原発指向の回答が増えた原因は、おそらく、菅直人首相が浜岡原発の停止を要請し、中部電力がこれを受け入れて、実際に浜岡原発が停止したこと、これをきっかけにしてマスコミの論調にも変化が出てきたことにある。あの優柔不断な首相が、どうして決断できたのか、いろいろと勘繰りたくもなるのだが、勝手な推測はやめておこう。この首相の決断についての私の意見は、すでに連載の第1回で述べてある。

このように浜岡原発が、政治的な決断によって実際に停止したことが、世論に変化をもたらしたと考えられる。が、それでも、脱原発派が圧倒的というわけではない。もともと、偽ソフィーの選択の状況であることを思えば、原発を「減らす」どころか、「全部なくす」が圧倒的な多数になってもおかしくないはずなのに、積極派と消極派は、未だに拮抗しており、まして全廃派は―1割強と―かなりの少数派である。

さらに、原発積極派が、重要な局面では結局は多数派であることを示したのは、つい先日6月5日の青森県知事選である。青森県は、福井県と並んで、原発関連施設の存否の影響を最も大きく受ける県である。つまり、原発事故の影響を受ける確率が最も高い県だ。知事選は、事実上、原発推進派である三村申吾氏と消極派の山村崇氏の対決であった。結局、三村氏が圧勝した。さらに付け加えておけば、山村氏は、「消極派」と言っても、新規の原発の建設を凍結するということだけで、すでにある原発を減らすとまでは主張していなかった。したがって、三村氏の勝利は、青森県民としては、これからも新たな原発を建設したい、と意思表明したことを意味している。

* * *

原発の将来につての問題は、哲学的に見れば、偽ソフィーの問題である。それなのに、日本人は、本来のソフィーの問題に直面したときと同じくらい迷っている。偽ソフィーの問題が与えられたときには、「当然、子どもを取るべきだ」と叫ぶ人が、原発を前にしたとたんに、逆の回答をする。どうしてだろうか。ここに原発問題の不思議さ、奇妙さがある。

哲学的・倫理学的にも難しいがゆえに、政治的にも難しくなる問題というものはたくさんある。というより、政治的に解決ができなくなる問題の大半には、背後に哲学的な難問がひかえている。たとえば、脳死問題は、「人間とは何か」とか「生命とは何か」という哲学上の問題が解けないがゆえに、法律や政治の場面でも混乱が続くのである。あるいは、市場への国家の介入がどの程度が望ましいかという問題は、哲学的には、ロールズのリベラリズムとノージックやロスバードのリバタリアニズムの対立へと転換することができる。社会保障のための資金を、保険方式によって調達するほうがよいのか、税方式がよいのか、また保険方式だとしても、社会的保険(所得に応じて拠出し、必要に応じて給付する)か、私的保険(リスクに応じて拠出し、拠出に応じて給付する)か、といった論争も、社会主義、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムを巻き込む哲学的な難問と並行している。

だが、原発の問題は、一見、哲学的・倫理学的には最も易しい問題である。それなのに、日本人は、これを最も難しい問題(ソフィーの選択)のように扱っている。つまり客観的には偽ソフィーの選択であるような問題を、主観的にはソフィーの選択に見せてしまう、変換のメカニズムXが働いているのである。

偽ソフィーの選択 → (X) → ソフィーの選択

この変換のメカニズムXを解明しなくてはならない。ここにこそ、原発問題の謎の核心がある。

いくつか論点を補足しておこう。この謎に対する、誰もが思いつきそうな説明は、原発がもたらす、さまざまな世俗的な利益を上げることである。大量の、安価な(?)エネルギーが生み出されるのは、原発がもたらす当然の利益だが、重要な利害はもっと別のことである。地元自治体への巨額な交付金、原発から自治体に入る固定資産税、原発の雇用創出の効果、公共事業としての原発の経済への波及効果等々が、原発をやめるという判断を鈍らせる、というわけである。しかし、この説明は、謎を解くものではない。

次のように考えれば、すぐにこの点は理解できるだろう。偽ソフィーのところに押し入った強盗が、たとえば、エアコンだけではなく、扇風機も、テレビも、パソコンも寄こせ、と要求したらどうだろうか。それどころか、家ごと全部寄こせ、と要求したらうどうだろうか。偽ソフィーは、それくらいだったら子どもを強盗に渡してしまうだろうか。そんなことはあるまい。それでも、偽ソフィーは子どもを迷いなく取るはずだ。ところが、現在の日本人は、迷っている。不思議ではないか。

原発問題を米軍基地の問題と比べてみると、ますます謎が鮮明に浮かび上がってくる。迷惑施設ではあるが、社会の全体に、とりわけ立地している地域に利益ももたらしている、という点では、基地も原発も同じである。米軍基地があると、騒音がひどかったり、傍若無人な軍人による犯罪があったり、環境が破壊されたりと、沖縄の人々はひどい目にあっている。しかし、基地があることによる経済的な利得も、当然あるのだ。それでも、沖縄県民は基地を拒否したではないか。それなのに、原発の立地自治体―先ほど論じた青森県のことを考えてみよ―は、どうして原発を受け入れるのだろうか。

米軍と放射性物質とどちらが嫌なのか、と尋ねられたらどうだろうか。放射性物質の方がより大きな恐怖の原因ではないか。それなのに、どうして、同盟国の軍人よりも、放射能の方が好まれているのか。不思議ではないか。

われわれは、偽ソフィーの問題をソフィーの問題へと変換して、苦しんでいる。何が、偽ソフィーの選択(最も易しい問題)をソフィーの選択(最も難しい問題)へと切り替えているのか。

* * *

ついでにもう一つ、指摘しておこう。われわれは、原発を過疎地に建設してきた。それは、冒頭に挙げた四つの倫理学の問題を用いて表現すれば、ソフィーの選択を暴走列車の問題に置き換えて、何とか解決する、という手法である。

原発を建設するということは、誰かの命を危険に晒すということである。原発は、最悪の場合、何千万人もの人々を危険に陥れうる。が、当然のことながら、原発の近くにいる者ほど危険は大きい。原発を立地している自治体の人々、そして何より原発で働く労働者の危険がいかにすさまじいものであるかを、われわれは、今ではよく知っている。だから、原発をどこかに建設することは、建設された地域の人々や原発の労働者を、ソフィーの(選ばれなかった方の)子どもの境遇におく。

この問題を、それでも解決できるようにするために、われわれは、原発を過疎地に建設してきた。この方が、犠牲者が少なくなるからである。これは、暴走列車の問題の解決の仕方と同じであろう。5人(都市部)が犠牲になるか、1人(過疎地)が犠牲になるか、という状況で、後者を選ぶことだからだ。冒頭で述べたように、ほんとうは、これだって、哲学的・倫理学的には解けない問題なのだ。しかし、それでも、ソフィーの選択よりはまだましに見える。

自治体が、原発の建設を受け入れるということは、陸橋から身を乗り出しているあの太っちょの役目を引き受けるということだ。自治体としては、簡単に騙されてはいけない。

電力会社や国は、原発は「安全だ」と説得するだろう。しかし、ほんとうに安全ならば、過疎地に建設するはずがない。東京に電力を供給するための原発を、どうして、福島県浜通りに建設したのか、考えてみればよい。絶対に安全ならば、浦安や、お台場や、羽田に建設したに違いない。あんな過疎地に建設するということ自体が、大声で「危険だ!」と言っているに等しい。

武田徹がかつて聞き取り調査したところによると、福島県浜通りの人々は、「いずれここは仙台のように栄える」という期待をもって、原発を誘致したのだという(『「核」論』中公文庫)。しかし、そこは、仙台のようには栄えていないから、仙台のようには人口が密集していないから、原発の建設地に選ばれているのである。絶対に、仙台のようになるはずがない。いつ線路の上に落とされるかわからないような、太っちょの役割を、喜んで受け入れてはならない。


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(続く)
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